ひーぶろぐ。

読書していたときに心に触れた言葉を残しています。

ひょっぽこ読書記録No.71 『14歳の君へ』池田晶子 毎日新聞社 ー抜粋23箇所

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『14歳の君へ』

   池田晶子

    毎日新聞社

 

 

・君は

 友達を

 いじめた

 経験が

 あるだろうか。

 逆に、

 いじめられた

 経験が

 あるだろうか。

 いじめる気は

 なかったけれども、

 皆と一緒に

 いじめないと

 いじめられるから

 いじめた、

 そういう人も

 いるだろう。

 さて、

 いじめるほうと、

 いじめられるほうと、

 どちらが

 悪いだろう。

 

 

・いじめるほうが

 悪いと、

 たいていの人は

 言うだろう。

 いじめられる人の

 つらさは、

 だいたい

 想像できるからね。

 それなら、

 君は、

 いじめるより

 いじめられるほうが

 良いと

 言えるだろうか。

 いじめることが

 悪いことなら、

 いじめられることのほうが

 良いことだ。

 もし

 君が、

 いじめるほうと、

 いじめられるほう、

 どちらも

 選べるとしたら、

 どちらを

 選ぶ?

 

 

・いじめられるのは

 つらいから、

 いじめるほうを

 選ぶ

 と言うなら、

 君は

 悪いことのほうを

 選ぶことになる。

 悪いと

 知っているのなら、

 何故

 悪いことのほうを

 選ぶだろう。

 悪いことは、

 良いことではなく、

 悪いことなのは

 決まっている

 じゃないか。

 

 

・人が

 生きてゆくのは、

 良い人生を

 生きるためだ。

 自分にとっての

 良い人生、

 幸福な人生を

 生きることが、

 すべての人の

 人生の目的だ。

 悪い人生、

 不幸な人生を

 生きたい

 と願う人は

 いない。

 すべての人は、

 良い人生を

 生きることを

 願っている。

 それなら、

 人は、

 悪い心で

 良い人生を

 生きることは

 できるだろうか。

 人を

 だましたり、

 人を

 蹴落としたり

 しながら

 生きてゆく人が、

 良い人生、

 幸福な人生を

 生きていると

 君は

 思うかい?

 

 

・悪い心になったとき、

 人は

 良い人生を

 生きることが

 できなくなるのだから、

 生きる目的だって、

 本当は

 なくなっているんだ。

 悪い心になってまで

 生きなければ

 ならない

 理由なんか、

 本当は

 ないんだ。

 このことに

 気がつくのが

 怖いから、

 世のほとんどの

 大人たちは、

 適当に

 悪いことを

 しながら、

 悪いことを

 している

 自分を

 ごまかしながら、

 何となく

 生きてゆくことに

 なっている。

 こういう

 人生を

 幸福な人生だと

 君は思うかい?

 

 

・人に

 嫌われたくない、

 好かれたい

 と思うのは、

 人に

 認められたい

 と思うからだ。

 人に

 自分を

 認められたい

 と思うのは、

 自分で

 自分を

 認めていないからだ。

 認めていない、

 認められない。

 つまり

 自分に

 自信がないからだ。

 自分に

 自信がないから、

 人に

 認められることで、

 はじめて

 自分を

 認められるように

 思うんだね。

 だけれど、

 そんな仕方で

 人に

 認められて、

 それが

 何だというんだい?

 相変わらず

 君は、

 本当の自分では

 ないし、

 ありのままの

 自分を

 見せることも

 できない。

 空しさは

 少しも

 満たされて

 いないんじゃないかな。

 ありのままの

 自分なんか

 見せたら、

 嫌われるかも

 しれないって?

 かまわないじゃないか。

 ありのままの

 君が

 嫌いな人とは、

 友達に

 ならなければ

 いいだけじゃないか。

 

 

・人に

 好かれようと

 するよりも、

 人を

 好きになるほうが、

 断然

 面白いことだと

 思わないか。

 人の目を

 気にして、

 あれこれ

 自分を偽るよりも、

 あっ、この人はステキだな、

 この人と友達になりたいな、

 そういう人を

 見つけて

 好きになるほうが、

 はるかに

 楽しいことじゃないか。

 好きになっても、

 嫌われたら

 悲しいって?

 かまわない

 じゃないか。

 もし

 君が

 自分で

 自分を

 認めていて、

 本当の自分に

 自信があるのなら、

 嫌われたって

 傷つかないはずだ。

 厚かまし

 人だって

 思うような

 人なら、

 しょせん

 それだけの人

 だったんだ。

 残念、

 君の見る目が

 なかったね。

 

クラウドワークス

 

・人に

 好かれようと

 するよりも、

 人を

 好きになるように

 しよう。

 こう

 気持ちを

 切り替えて

 ごらん。

 自分に

 自信がない

 君も、

 それだけで

 何だか

 自信が

 わいてくるんじゃないかな。

 だって、

 人に

 好かれることは、

 自分じゃ

 どうにも

 できないことだけれど、

 人を

 好きになることなら、

 自分で

 できることだからね。

 自分で

 できることを

 するのでなければ、

 やっぱり

 面白くないじゃないか。

 

 

・人を

 嫌いになるのは

 いけないことだ、

 と思っている人もいる。

 誰でも

 好きにならなくちゃ、

 誰とでも

 仲良くしなくちゃ

 いけないってね。

 その心がけは

 立派なことだけれど、

 やっぱり

 ちょっと

 無理があるよね。

 無理なことは

 良くないよ。

 大嫌いな

 ピーマンを

 無理やり

 飲み込んで、

 君は

 お腹をこわすことに

 なるかもしれない。

 じゃあ、

 どうしても

 嫌いな人に、

 君は

 どういう

 態度をとれば

 いいだろう。

 

 

 君は、

 こうすることが

 できる。

 嫌いなものは

 嫌いだ。

 これは

 もう

 どうしようもない。

 そして

 嫌いなものは

 そこにある。

 これも

 どうしようもない。

 だから

 そのことを

 自分で

 認めてしまうんだ。

 そして、

 それ以上

 そのことに

 こだわらないことだ。

 そうすれば、

 嫌いなものは

 嫌いで、

 放っておくことが

 できる。

 ピーマンさん、

 あなたが

 この世に

 存在することは

 認めるけれど、

 あいにく

 私は

 あなたが

 嫌いです、

 だから

 私は

 あなたを

 食べません

 って具合にね。

 

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・嫌いなものを

 無理に

 好きになろうと

 するのは、

 好き嫌いに

 こだわるまいとして、

 逆に

 好き嫌いに

 こだわっているんだ。

 でも、

 好き嫌いは

 好き嫌いとして、

 どうしても

 存在する。

 それなら、

 それはそれとして

 認めて

 こだわらないこと、

 これが

「愛」

 というものなんだ。

 君は

 意外だろう。

 嫌いが

 嫌いで

 愛だなんて、

 変だと

 思うだろう。

 愛というのは

 好きというのと

 同じことだと

 思っていただろう。

 だけれど、

 愛と好きとは

 違うんだ。

 愛は

 感情じゃない。

 愛は、

 好き嫌いを

 超えたもの、

 それが

 そこに

 存在することを

 認める

 ということだ。

 受け容れることだ。

 ピーマンが

 嫌いでも、

 ピーマンが

 存在することは 

 認める。

 あの人は

 嫌いだけれど、

 あの人が

 存在することは

 受け容れる。

 そうすれば、

 嫌いという

 感情を

 持ちながらも、

 愛することが

 できる。

 その人の

 存在を

 拒まずに

 受け容れることが

 できるんだ。

 

 

「自分らしく」を

 求めることが、

 自分を

 自分らしく

 なくしている。

 

 

・自分の意見と

 同じように、

 他人の意見も

 尊重しなさい

 なんて言われるけれど、

 そんなこと

 無理だって、

 わかるだろう。

 意見は、

 しょせん

 意見にすぎない。

 それぞれが

 自分の

 立場や都合で

 好き嫌いから

 言っているに

 すぎないのだから、

 互いに

 尊重するのは

 不可能だ。

 内容が

 利害や損得のことに

 なれば、

 このことは

 よくわかる。

 誰も

 自分にとって

 損なことは、

 正しくない

 と言うはずだ。

 だからこそ、

 君は

 意見なんてものを

 持つべきではない。

「自分の意見」を

 主張しては

 ならない。

 君が

 しなければ

 ならないのは、

 自分の意見を

 主張することでは

 なくて、

 本当の考えを

 知ること、

 自分の

 立場や都合を

 超えた、

 誰にとっても

 正しい考えを、

 自分で

 考えて

 知ることだけなんだ。

「自分が

 思っているだけの

 自分の意見」と、

「誰にとっても

 正しい考え」、

 この違いが

 どうして

 わかるのか、

 疑問に

 思うかもしれない。

 どちらも

 それは、

 自分が思っていること

 じゃないのかなって。

 

 

・自分で

 考える

 勉強は

 面白い。

 自分の頭で

 考える

 ということは、

 本当に

 面白いことなんだ。

 どうして

 面白いか

 というと、

 考えれば、

 知ることが

 できるからだ。

 知るということの

 喜び、

 自分が

 賢くなることの

 実感、

 これが

 人を

 夢中にするんだね。

 

 

・歴史上の

 すべての人物、

 教科書に

 登場している

 英雄や偉人や有名人だけ

 じゃなくて、

 まったく

 無名の

 どこかの人々、

 これまで

 地球上に

 生きて死んだ

 すべての

 人間について

「あれは私だ」と、

 こう

 想像してみて

 ごらん。

 ナポレオンは私だ、

 織田信長は私だ、

 いつの時代か

 どこかの町で

 普通に暮らして

 死んだ

 その人も私だと、

 こう

 思ってごらん。

 すると

 君は、

 ナポレオンになった

 君が、

 ワーテルローの戦いで、

 どう判断し、

 どう行動するか、

 生き生きと

 想像することが

 できるだろう。

 信長の苦悩が

 わかるだろう。

 普通に

 生きて死んだ

 誰だかの心なんて、

 まるで

 手に取るようじゃないか。

 歴史を知る、

 過去のことを

 想像することの

 面白さとは、

 まさに

 これなんだ。

 過去のすべては

 現在の君に

 つながっている

 と言ったね。

 それを

 逆から言えば、

 現在の君は、

 過去のすべてに

 つながることが

 できる

 ということだ。

 これは

 自由自在だよ。

 君は

 有名無名の

 すべての人々、

 誰にでも

 なることが

 できるんだ。

 だって、

 歴史とは、

 君だからだ。

 

 

「社会」とは、

 複数の

 人間の集まりに

 つけられた

 呼び名であって、

 それ以上でも

 それ以下でもない

 という

 事実を、

 ずっと

 忘れないで

 いてください。

 そういったものが、

 どこか外界に、

 自分とは

 別のところに

 存在すると

 思っていると、

 やがて

 それは、

 自分の

 自由を

 規制するものと

 思われるようになる。

 自分は

 自由にしたいのに、

 社会は

 自由にさせてくれない。

 でも、

 生きるためには

 社会で

 生活しなければ

 ならない。

 そういうふうに

 考えて、

 それで

 人は

 苦しくなるんだ。

 だけど、

 いいかい、

 生きるか

 生きないかは、

 完全に

 その人の

 自由だということ、

 この事実を

 君は認めるね。

 生きたくなければ

 生きない自由は

 存在している。

 そして、

 その人は、

 生きるということを、

 その自由により

 選択したのだから、

 社会の中で

 生きるということも、

 やっぱり

 自由なことのはずだ。

 なるほど、

 様々な

 規制や制約は

 存在する。

 だけれど

 それに

 従うかどうかは、

 やっぱり

 その人の

 自由じゃないか。

 もし

 社会の中で

 生きるということを、

 その自由により

 選択しないのなら、

 そんなものには

 従わなくたっていい。

 やっぱり

 人は、

 どこまでも

 自由を

 失いはしないんだ。

 

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・もともと

 一人一人の

 人間が、

 集まって

 社会を

 構成するように

 なったのは、

 生きるために

 そのほうが

 便利だったからだ。

 原始時代、

 狩りで

 獲物を

 追うために、

 田んぼに

 水を引くために、

 人びとが集まって

 仕事をするように

 なったのが

 原形だ。

 社会とは、

 そもそも、

 生きることを

 選択した人たちが

 作ったものだ。

 規制も制約も、

 そのためのものであり、

 逆から言えば、

 それだけのものに

 すぎない

 ということだ。

 さて、

 君は、

 君の自由で、

 従うことを

 選択しますか?

 

 

「社会」とは、

 別の言い方をすれば、

「他人の集まり」だ。

 他人は他人だ。

 自分じゃない。

 何故

 人は、

 他人の言うこと、

 他人のすることを

 気にするのだろう。

 生きているのは

 自分であって、

 自分は

 完全に

 自由なのだ

 ということを

 思い出してみよう。

 他人の言うこと、

 他人のすることを

 気にすることで、

 自分を

 不自由にしているのは、

 自分でしかない。

 なのに、

 自分が

 不自由なのは

 その

 他人のせいだと

 勘違いして、

 他人を責めることに

 なってはいないか。

 

 

・自分が

 不自由なのを

 他人のせいにして、

 他人や社会を

 責めるのが、

 多くの大人の

 ありようだ。

 自分のことが

 うまくゆかないのは

 他人のせいだ、

 社会が悪い、

 とにかく

 社会が悪いのだ

 と思っている

 大人を

 よく見かけるね。

 だけれど

 本当に

 おかしいと

 思わないのか。

 だって、

 社会なんて、

 どこにも

 存在していないのだもの。

 社会は

 一人一人の

 人間の集まりに

 すぎないのだから、

 一人一人の

 人間が

 良くなる以外に、

 社会が

 良くなる方法なんかない。

 社会を

 良くしたいと

 本当に思うなら、

 他人が悪いと

 責める前に、

 自分が

 良くならなければ

 ならないはずだ。

 

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「どうやって

 生きるのか」

「どんなふうに

 生きるのか」

 ということを、

 君は

 改めて

 考えたことが

 あるだろうか。

 

 

・一度

 改めて

 考えてみよう。

「何となく」

 生きている人でも、

 どうして

 そうやって

 何となく

 生きているか

 というと、

 その

 何となく

 生きていることが、

 自分にとって

「良い」と

 思っているからだ。

 自分にとって

 良いことで

 なければ、

 人は

 するはずが

 ないからだ。

 人が

 今

 現に

 そのように

 生きている

 ということは、

 それが

 どのように

 生きているのであれ、

 それが

 自分にとって

 良いことだと、

 必ず

 認めている

 ということなんだ。

 

 

・もし

 それを知りたい

 と願うのなら、

 君は、

 考えなければ

 ならない。

 考えて、

 本当のことを

 知らなければ

 ならないんだ。

 社会が決めた

 法律に

 善悪はない。

 そんなものは、

 自分の外に

 あるもの、

 変わるものだからだ。

 それなら

 変わらない

 善悪は

 どこにあるか、

 もう

 わかるだろう。

 それは

 常に

 君の中にある。

 それについて

 知ろうと

 考えている

 君の

 心の中に

 あるんだ。

 

 

・誰かが

 決めてくれた

 善悪に従って

 生きるのは

 楽なことだ。

 だけれど、

 そんなものは

 信じられない。

 だって、

 それが

 本当かどうか

 わからないからだ。

 だから

 君は、

 これからの

 人生、

 すごく

 大変なことだけれども、

 常に

 自分で考えなければ

 ならない。

 このことは

 本当に

 良いことか

 悪いことか。

 その場その場で、

 自分で

 判断して

 行動しなければ

 ならないんだ。

 でも

 そうするのでなければ、

 どうして

 君が

 自由に

 生きるなんてことが

 できるだろう。