ひーぶろぐ。

読書していたときに心に触れた言葉を残しています。

ひょっぽこ読書記録No.106 『亜玖夢博士の経済入門』橘玲 文芸春秋 ー抜粋11箇所

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『亜玖夢博士の経済入門』

   橘玲

    文芸春秋

 

 

 

「借金は

 いくらかな?」

 金属とガラス片を

 こすり合わせるような

 不快さが

 部屋に

 充満した。

 首回は

 その言葉に

 ぎょっとし、

「な、

 なんで

 知ってんだよ……」

 と呟いた。

 もちろん

 これは、

 亜玖夢博士が

 読心術を

 駆使したわけではない。

 単純な統計学

 問題なのである。

 各種調査によれば、

 日本人の悩みは

 病気と金銭問題が

 四割ずつ、

 残りの二割が

 人間関係となっている。

 病気を苦にする人は、

 高い確率で

 風俗街よりも

 病院を訪れるだろう。

 恋愛相談は

 十代の女性、

 子育ての悩みは

 三十代から四十代の母親が

 ほとんどで、

 彼女たちは

 よほどの

 覚悟がなければ

 亜玖夢博士の

 研究室まで

 辿り着けない。

 統計学的には、

 首回の悩みは

 二標準偏差

 すなわち

 95%の確率で

 借金なのだ。

 

 

・博士は

 ズボンのポケットから

 財布を取り出すと、

「これを

 君にあげよう」

 と言って、

 千円札を

 テーブルの上に

 置いた。

「どうじゃ、

 嬉しいだろう」

 首回は素直に、

「はあ」

 と頷いた。

「じゃが、

 やっぱり

 君には

 やらん」

 博士は

 いったん出した

 千円札をしまうと、

 再び

 犬歯をむき出して

 笑った。

「どうじゃ、

 がっかりしただろう」

 首回は

 もう一度、

「はあ」

 と言った。

「千円あげると

 言われたときの

 嬉しさと、

 もらえるはずの

 千円札を

 取りあげられたときの

 悔しさを、

 いつでも

 思い出せるように

 しておきなさい」

 だが

 このとき、

 首回の脳に

 刻み込まれたのは、

 得体の知れぬ

 恐怖だけであった。

「では

 次に、

 君が億万長者で、

 金庫には

 溢れんばかりの

 札束が

 詰め込まれていると

 想像してみたまえ」

 ここで

 博士は、

 わざとらしく

 間を置いた。

「そのとき、

 わしから

 もらう

 千円は

 今より

 嬉しいだろうか?」

 パニックに陥った

 首回は、

「億万長者、億万長者……」

 と頭の中で

 念仏のように

 唱えた。

 と、

 不意に

 答えが

 口をついて

 出た。

「あんまし

 嬉しくないっすね。

 だって、

 もう

 いっぱい

 持ってるんだから」

「その通り」

 博士は言った。

「では、

 千円は

 やっぱり

 やらん、

 と言われたら?」

「どうだっていいすよ、

 そんなもん」

 と首回。

 博士は

 満足そうに

 頷くと

 今度は、

「君の財布の中の

 現金を

 すべて

 テーブルの上に

 出しなさい」

 と命じた。

 軽度の洗脳状態に

 陥っていた

 首回は、

 言われるままに

 財布を出し、

 1枚だけ

 残っていた

 千円札を

 置いた。

 その瞬間、

 博士は

「ふん!」

 という

 鼻息と共に

 目にも止まらぬ

 早業で

 その千円札を掴むと、

 ズボンのポケットに

 ねじ込んだ。

 首回は

 しばらく

 呆然としていたが、

 見る間に

 頬が赤く染まり、

「てめえ、

 このジジイ、

 ざけんじゃねえぞ!」

 と叫び始めた。

「その金は

 俺の

 1週間分の

 生活費なんだよ。

 どうやって

 これから

 生きていけっつーんだよ。

 ぶっ殺すぞ、

 このやろう。

 早く返せよ!」

「素晴らしい!」

 博士は

 立ち上がって、

 首回の手を

 握りしめた。

「君は

 たった5分で、

 現代経済学の

 最先端たる

 行動経済学の本質を

 掴んだのだよ」

 

 

「君は、

 わしが

 千円あげる

 と言っても

 たいして

 興味を

 示さんかった。

 それに

 ひきかえ、

 千円札を

 奪われたら

 いきなり

 ぶち切れた。

 ここに、

 人間心理の

 不思議が

 凝縮されておる。

 我々の脳は、

 得するときの

 嬉しさよりも

 損したときの

 悔しさを

 はるかに

 大きく感じるよう

 つくられておるのじゃ」

 

 

・それには

 答えず、

 博士は

 もう一度

 財布を取り出して、

 今度は

 1万円札を

 テーブルに

 置いた。

 もみじ饅頭のような手が、

 しっかりと

 1万円札を

 押さえつけている。

「今すぐ

 これを

 君にやる

 と言ったら

 嬉しいだろう」

 首回は、

 隙があれば

 ひったくってやろうと

 目を皿のようにしながら、

 小さくうなずいた。

「では、

 1年後にだったら

 どうじゃな」

 博士は、

 大事そうに

 1万円札を

 財布にしまった。

「なんつーか、

 がっかりっすよ」

 溜め息と共に

 首回は答えた。

「ますます

 素晴らしい」

 博士は

 短い腕を

 振り回すと、

「君は

 人間の行動を

 支配する

 もうひとつの

 原理を

 今

 発見したのじゃよ」

 と宣言した。

 亜玖夢博士によれば、

 目の前の

 出来事を

 過大に評価し、

 将来の出来事を

 過小評価する傾向が

 人類には

 普遍的に

 存在する。

 

 

囚人のジレンマでは、

 論理的に

 正しい答えが

 誤った結果を

 導く」

 亜玖夢博士は、

 ぎょろりとした目を

 剝き出して

 説明を始めた。

「ということは、

 この社会が

 囚人のジレンマ

 溢れているのなら、

 我々は

 常に、

 合理的な判断によって

 相手を

 裏切り続けなければ

 ならない。

 すなわち、

 人間関係の基本は

 騙し合いになる」

 

 

「世の中の仕組みを

 理解するうえで

 一番大切なことは、

 人は

 一人で

 生きてはいけない

 ということだ」

 亜玖夢博士は

 ウサギの顔をした

 かかしの絵を描いて、

「これが僕だ」

 とケンタに言った。

「だが、

 僕の周りには

 様々な人間がいる」

 博士は、

 クマや

 ウマや

 ウシの

 顔をした

 かかしを

 次々と描いた。

「これが、

 我々の

 生きている世界だ。

 天才

 カール・マルクスは、

 これを

 簡潔に

 “人間は

 社会的関係の

 総体である”

 と述べた。

 ここに

 すべての

 世界の秘密が

 隠されておる。

 わかるか?」

 そう言われても、

 ケンタには

 何のことか

 さっぱり

 わからなかった。

 ただ

 ウサギの顔が

 あまりにも

 情けなくて、

 悲しかった。

「この社会的関係を

 ネットワーク

 という」

 博士は、

 そんな感傷には

 いっさい

 構わず

 説明を続けた。

「もちろん

 僕の通う

 学校も、

 人間関係の

 小さなネットワークだ」

 

 

・亜玖夢博士の

 テーブルの上に

 一匹のコアラがいて、

 その前で

 ケンタは

 途方に暮れていた。

「このコアラには

 チョコレートが

 入っており、

 大変

 美味い。

 そして

 ここに

 深遠な謎が

 隠されておる」

 博士は

 紙箱から

 一匹つまむと、

 口に放り込んだ。

 引き出しに

 こっそり

 隠していた

 おやつを、

 年若い来客のために

 わざわざ

 取ってきたのだ。

「そこで

 問題だ。

 このお菓子は

 なぜ

 コアラでなければ

 ならなかったのか、

 考えてみたまえ」

 そう言いながら、

 博士は

 ケンタの前に

 コアラを一匹

 置いた。

 ケンタは

 質問の意味が

 わからず、

 ぽかんと

 口を開けていた。

「コアラ以上にも

 可愛い動物は

 いくらでも

 いるだろう。

 だったら

 何故

 “パンダの行進”や

 “ラッコのダンス”では

 駄目なのだろうか」

 ケンタの口は、

 ますます

 ぽかんと

 開いた。

「では

 もっと

 簡単な

 質問にしよう。

 コアラとパンダの

 違いは

 どこにある?」

「えーっと、

 コアラは

 オーストラリアにいて、

 パンダは

 中国の山の中で

 竹の葉っぱを

 食べています」

 必死に考えて、

 ケンタは

 答えた。

「わしは

 そんなことは

 訊いておらん」

 不愉快そうに、

 亜玖夢博士は言った。

「パンダを

 お菓子にして、

 どこに

 不都合がある」

「そんなこと

 言われても……」

 ケンタは呟いた。

「別に

 “パンダの行進”だって

 いいと思いますけど」

 その瞬間、

 博士は

 パン!

 とテーブルを叩き、

 ケンタは

 30センチ近く

 飛び上がった。

「素晴らしい!

 まさに

 今、

 僕は

 ネットワーク経済の

 本質に

 到達したのだよ」

 ケンタは

 何のことか

 わからず

 目を

 ぱちくりさせた。

「いいかね。

 コアラでも

 パンダでも

 ラッコでも、

 お腹に

 チョコレートを

 詰め込むのは

 実は

 何でも

 良かったのだよ。

 だが

 ひとたび

 コアラの形のお菓子が

 子供たちに

 人気になると、

 それは

 他の動物で

 代用できなくなった。

 このことは、

 コアラが

 動物お菓子の

 ハブとなったことを

 示しておる」

「お菓子のハブ?」

「そう、

 最初は

 他人より

 ちょっとだけ

 目立っていただけなのに、

 時とともに

 どんどん

 注目を集めて

 人気者になっていく。

 ネットワーク理論では、

 ハブが

 加速度的に

 リンクを獲得していく

 この過程を

 フィードバック

 すなわち

 増幅効果

 という」

 博士は

 手についたチョコを

 ぺろりと舐めると、

 残りを

 大事そうに

 しまった。

「インターネットの世界では、

 ポータルと呼ばれる

 サイトが

 膨大なリンクを集め、

 ハブとして

 君臨している。

 経済社会では、

 金持ちは

 金持ち同士の

 付き合いで

 ますます

 豊かになっていく。

 男と女の関係でも、

 ごく少数の

 モテる男が

 多数の女性と

 関係を結ぶ一方で、

 多くの男は

 生涯に

 一人か二人の

 異性しか知らず、

 童貞のまま

 一生を終えることも

 珍しくない。

 すなわち、

 モテる者は

 ますます

 モテるようになる」

 

 

「ふーむ。

 次は

 社会的証明による

 説得じゃな」

「社会的証明?」

 満留知は

 ぽかんと

 口を開けた。

「何ですか、

 それ」

「生物としての

 ヒトの遺伝子には、

 “長いものに巻かれろ”

 という

 指令が

 書き込まれておる」

 博士は、

 出来の悪い生徒を

 𠮟責する

 教師のように

 窓の外を

 指さした。

「このビルを出たら、

 歌舞伎町の

 真ん中で

 空を見上げて

 立っていなさい」

「何で

 そんなことを

 しなくちゃ

 いけないんですか?」

 憮然とした表情で、

 満留知が訊いた。

「群衆の中で

 ただ一人

 空を見上げておったら、

 通行人のほとんどは

 気味悪がって

 君を避けるか、

 はなから無視して

 通り過ぎて

 いくじゃろう。

 だが

 やがて、

 不思議に思って

 立ち止まり、

 同じように

 空を見上げる

 通行人が出てくる。

 ほとんどは

 何も

 見つからないので

 すぐに

 離れていくが、

 その人数が

 二人から

 三人、五人と

 増えていくと

 状況は

 劇的に変わる。

 ある人数を超えると

 立ち止まる

 通行人は

 指数関数的に増え、

 最後には

 大群衆が

 何もない空を

 見上げる光景に

 至るのじゃ」

 ヒトが

 文明を生み出したのは

 一万年前で、

 それ以前は

 サルと同じ

 狩猟採集の

 集団生活を

 行っていた。

 わずか

 一万年前では、

 生物学的な器官としての

 脳の構造は

 何も変わらない。

 人間の行動は

 今でも、

 原始時代を

 生き延びた祖先から

 大きな影響を

 受けている。

「サルもヒトも、

 群れから離れて

 独立することは

 死を意味した」

 博士は言った。

「生き残るためには、

 集団と

 同じ行動をとるのが

 最も

 有効な戦略だった。

 だから

 我々は、

 今でも

 無意識のうちに

 他人の真似をしたり、

 軍隊や会社のような

 集団に

 忠誠を誓ったり、

 孤独を恐れたり

 するのじゃよ」

 満留知は、

 憎々しげに

 亜玖夢博士を

 睨みつけた。

 彼の

 死なる責務が

 サルと同列に

 扱われることが

 耐えられなかったのだ。

「そのうえ、

 君は

 ちょっとした

 トリックを

 使っておる」

 博士は、

 追及の手を

 緩めなかった。

「君は、

 社会的証明として

 親兄妹や

 親戚、

 飼い犬のポチまでが

 ミラクルなんとかを

 飲んでいると

 言った。

 だが、

 君の一族が

 日本を

 代表しているわけでは

 あるまい。

 現に、

 わしは

 その

 へんてこな水を

 飲んでおる人間を

 誰ひとり

 知らん。

 都合のいい部分だけを

 切り取って、

 それを

 全体に拡大するのは

 科学的な態度とは

 言えんな」

 

 

・複数のものから

 ひとつを

 選択するのは、

 日常的に

 よくある状況だ。

 しかし

 人は、

 いつでも

 必要な情報を

 入手し、

 冷静に

 比較検討できる

 わけではない。

 そのときに

 重宝するのが

 希少性の原理だ。

「金が鉄よりも

 高価なのは、

 産出量が少ないからじゃ。

 ダイヤモンドに

 価値があるのは

 美しいからではなく、

 持っている人間が

 少ないからじゃ。

 我々は、

 希少なものは

 高価で

 価値が高いと

 無意識に

 刷り込まれておる」

 いくら値下げしても

 売れない宝石の処分に

 頭を悩ませていた

 宝石商は、

 ある日、

 どうせ

 売れないのなら

 値段を上げても

 同じだと

 思いついた。

 そこで

 仕入れ値の

 倍の値札をつけ、

「在庫限り」の

 表示を出したところ、

 これまで

 見向きもされなかった

 商品が

 あっという間に

 完売してしまった。

社会心理学

 実験結果では、

 宝石や

 ブランド品、

 健康食品など、

 原価の

 定かでないものを

 販売するときは、

 価格を下げるよりも

 希少性の原理に

 訴えかけたほうが

 はるかに

 効果的だということが

 実証されておるのじゃよ」

 そう博士は言った。

 

 

「そこまで

 おっしゃるのであれば、

 博士は

 人間の幸福とは

 何だと

 お考えですか?」

 満留知は

 むきになって

 論争を挑んだ。

「幸福の定義は

 様々じゃが、

 少なくとも

 健康に暮らすことが

 そのひとつであることは

 間違いないな」

 博士は言った。

「ということは、

 病気にならないよう

 努力することも

 幸福の条件

 ひとつに

 なりますよね」

「ふむ。

 それには

 異存はないが」

「でしたら

 何故、

 博士は

 スーパー・パイオニック・ウォーターを

 頭から

 否定するのですか?

 仮に

 百歩譲って、

 その効用が

 科学的に

 明らかになっていない

 としましょう。

 それでも、

 現実に

 この“奇跡の水”のおかげで

 難病を克服できた人が

 たくさん

 いるのですから、

 試してみる価値は

 あるのじゃないですか。

 先ほど

 博士は、

 努力することが

 大事だと

 仰いました。

 でも

 博士は、

 その努力を

 自ら

 否定なさっています」

「素晴らしい」

 博士は

 もみじ饅頭のような

 手を

 パチパチと

 叩いた。

「今度は

 コミットメントと一貫性の圧力

 じゃな。

 原始的な論理だが、

 少なくとも

 進歩の跡は見える」

 人間が

 社会的な動物である以上、

 誰もが

 否応なく

 社会の中で

 有意な立場を

 確保する競争に

 投げ込まれる。

 社会的な優位性とは、

 簡単にいえば、

 集団の構成員から

 尊敬される

 立場である。

 そのときに

 重要になるのが

 コミットメントと一貫性、

 すなわち

 約束を守り

 主張を変えない

 生き方である。

 しょっちゅう

 約束を破ったり、

 場当たり的に

 主張を

 変えているようでは、

 誰からも

 信頼してもらえない。

 一般に、

 社会的地位の高い人ほど

 コミットメントと一貫性に

 固執する。

 つまり、

 自分が言ったことを

 あとから

 撤回できない。

「だから

 君は、

 “健康のために

 努力することは

 幸福の条件だ”

 と

 あらかじめ

 罠をはっておき、

 ミラクルなんとかを

 使わないのは

 論理矛盾だと

 批判したのじゃ」

 博士は、

 完膚なきまでに

 満留知を

 論破した。

「努力が

 大事だとしても、

 そのための

 方法は

 いくらでもある。

 君のいう

 ミラクルなんとかは、

 そのうちの

 ひとつにすぎん。

 これは

 必要条件と

 十分条件

 混合させる

 古典的な

 論理トリックじゃ。

 だが、

 人は

 嘘つき呼ばわり

 されると

 冷静さを失い、

 無意識に

 自分を

 正当化しようとして

 自縄自縛に

 陥っていく。

 人を操る

 なかなか

 高度なテクニックじゃな」

 

 

「人の心には

 様々な癖がある。

 それを利用することで、

 相手を

 説得したり、

 騙したり

 商品を売り込んだり

 することができる。

 そのうえ

 これは

 無意識の働きを

 利用しておるから、

 相手は

 影響力を行使されたことに

 気づかん」

 博士は、

 穏やかな笑みを浮かべ

 満留知を見た。

「君は

 どこかで

 他人の心を操る術を

 身につけたようじゃな。

 だが

 心理的なトリックで、

 石をダイヤモンドに

 変えることはできん。

 そんな小細工は、

 長い人生の中では

 何の役にも

 立たんのじゃよ」

 

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