ひょっぽこ読書記録No.166 『ハリケーン・チャーリーの被害』これから正義の話をしよう
《ハリケーン・チャーリーの被害》
『これから正義の話をしよう』より
2004年夏、
メキシコ湾で発生した
ハリケーン・チャーリーは、
猛烈な勢いを保ったまま
フロリダを横切って
大西洋へ抜けた。
22人の命が奪われ、
110億ドルの被害が
生じた。
チャーリーは
通過した後に
便乗値上げを巡る論争まで
残していった。
オーランドの
あるガソリンスタンドでは、
1袋2ドルの氷が
10ドルで売られていた。
8月の半ばだというのに
電気が止まって
冷蔵庫やエアコンが
使えなかったため、
多くの人々は
言い値で買うより
仕方がなかった。
木々が吹き倒されたせいで、
チェーンソーや屋根の修理の
需要が増加した。
家の屋根から
2本の木を
取り除くだけで、
業者は
なんと
2万3000ドルを
要求した。
小型の家庭用発電機を
通常は
250ドルで
売っている店が、
ここぞとばかりに
2000ドルの
値札をつけていた。
老齢の夫と
障害を持つ娘を連れて
避難した
77歳の婦人は、
いつもなら
1晩40ドルの
モーテルで
160ドルを
請求された。
多くのフロリダ住民が
物価の高騰に
憤りを隠さなかった。
『USAトゥデイ』紙には
「嵐の後でハゲタカがやってきた」
という見出しが
躍った。
ある住民は、
屋根から
倒れた木
1本をどかすのに
1万500ドルかかる
と言われ、
「他人の
苦境や不幸を
儲けの種にしよう
とする」連中は
間違っている
と語った。
フロリダ州司法長官
チャーリー・クライストも
同じ意見で、
「ハリケーンの後で
困っている人の
弱みにつけこもうとする
人間の欲深さには、
驚きを禁じ得ない」
と述べた。
フロリダ州には
便乗値上げを禁じる
法律があるため、
ハリケーン・チャーリーの
直後には
司法当局に
2000件を超える
苦情が寄せられた。
なかには
裁判で
勝訴を勝ち取った
例もあった。
ウェスト・パームビーチの
モーテル<デイズ・イン>は
法外な宿泊料をふっかけた
顧客に対し、
罰金と賠償金合わせて
7万ドルを
支払う羽目になったのだ。
ところが、
クライストが
便乗値上げ禁止法を
執行した時でさえ、
一部の経済学者は
その法律や
一般市民の怒りは
見当違いだと
主張した。
中世の
哲学者や神学者は、
商品の取引は
伝統や商品本来の価値で
決まる
「正しい価格」を
もとに行われるべきだ
と考えていた。
しかし
市場社会の経済学者は、
価格は
需要と供給によって
決まる
と言った。
「正しい価格」
といったものは
存在しない
というのだ。
自由市場を信奉する
経済学者の
トーマス・ソーウェルは、
便乗値上げというのは
「感情には
強く訴えるかもしれないが
経済学的には
意味のない表現で、
ほとんどの経済学者が
なんの注意も
払わない。
曖昧すぎて
わざわざ
頭を悩ませるまでも
ないからだ」
と述べた。
ソーウェルは
『タンパ・トリビューン』紙上で
「『便乗値上げ』のおかげで
フロリダの住民が
どれほど助かるか」
を説明しようとした。
ソーウェルによれば、
便乗値上げが非難されるのは
「人々が慣れている
価格より
かなり高い場合」
だという。
しかし
「人々が
たまたま
慣れている
価格のレベル」
が道徳的に不可侵だ
などということはない。
その価格は
市場の条件がもたらす
「別の価格と比べて
特別でもなければ
『公正』
でもない」
のだ。
それが、
たとえ
ハリケーンによって生じた
条件であったとしても。
ソーウェルは
こう論じた。
氷、
ボトル入り飲料水、
屋根の修繕代、
発電機、
モーテルの部屋代などが
通常よりも
高いおかげで、
こうした
商品やサービスの
消費が
抑えられる一方、
はるかな遠隔地の
業者にとって
ハリケーンの後で
最も必要とされている
商品やサービスを提供する
増すことになる。
8月の猛暑の最中の
停電で困っている
フロリダの住民に、
氷が
1袋10ドルで
売れるとなれば、
製氷会社は
どんどん
増産して
出荷するのが
得策だと
気づくはずだ。
こうした価格に
なんら不正なところは
ないと、
ソーウェルは
説明した。
売り手と買い手が
取引する
品物に置く価値を
反映しているに
すぎないのである。
市場を支持する
評論家の
ジェフ・ジャコビーは、
『ボストン・グローブ』紙上で
同じような論拠から
便乗値上げ禁止法に
反対した。
「市場でつく価格を
請求することは
暴利行為ではない。
強欲でも
恥知らずでもない。
それは
自由な社会で
財やサービスが
分配される
仕組みなのだ」
という。
ジャコビーは
「物価の急騰は
ひどく
腹立たしいことであり、
恐ろしい嵐のせいで
生活が
混乱している人にとっては
なおさらだ」
と認めていた。
だが、
一般市民の怒りは
自由市場への干渉を
正当化するものではない。
一見
法外な価格も、
必要な商品の
増産を促す
生産者に
与えることによって、
「害よりも
はるかに多くの
益をもたらす」
というのだ。
「売り手を
悪者扱いしても
フロリダの復興が
早まることはない。
売り手には
思う存分
商売をさせてやることだ」
というのが
ジャコビーの
結論だった。
先の
クライスト司法長官
(共和党員で
後のフロリダ州知事)は
『タンパ・トリビューン』紙の
論説コラムで、
便乗値上げ禁止法を擁護する
論陣を張った。
「緊急事態において、
人々が
命からがら
避難している時、
あるいは
ハリケーンの後で
家族のための必需品を
手に入れようとしている時、
良心に照らして
不当な価格を
請求されているとすれば、
政府はそれを
傍観するわけには
いかない」
クライストは、
こうした
「良心に照らして
不当な」価格が
真に自由な取引に
基づいている
という考えを
否定した。
これは
正常な
自由市場の
状態ではない。
自発的な買い手が
自由意思で
市場に参入し、
自発的な売り手に
出会い、
需給に応じて
価格が
合意されている
わけではないからだ。
緊急事態では、
切羽詰まった
買い手に
自由はない。
安全な
宿泊施設のような
必要不可欠なものの
購入に
選択の余地は
ないのだ。
ハリケーン・チャーリーが
通り過ぎた後で
巻き起こった
便乗値上げをめぐる
論争は、
道徳と法律に関する
難問を提起している。
商品やサービスの
売り手が
自然災害に乗じ、
市場でつく
価格であれば
いくらでも
請求することは
間違っているのだろうか。
だとすれば、
法律は
何をすべきだろうか。
売り手と買い手が持つ
取引の自由に
介入することになっても、
州は
便乗値上げを
禁止すべきなのだろうか。
これらの問題は、
個人が
お互いを
どう扱うべきか
というテーマに
かかわるだけではない。
法律は
いかにあるべきか、
社会は
いかに組み立てられるべきか
というテーマにも
かかわっている。
つまり、
これは
「正義」
にかかわる
問題なのだ。
これに答えるためには、
正義の意味を
探求しなければ
ならない。
実は、
我々は
すでに
その探求を
始めている。
便乗値上げをめぐる
論争を
詳しく見てみれば、
便乗値上げ禁止法への
賛成論と反対論が
三つの理念を中心に
展開されていることが
わかるだろう。
つまり、
福祉の最大化、
自由の尊重、
美徳の促進である。
これらの
三つの理念は
それぞれ、
正義に関して
異なる考え方を
提示している。
束縛のない
市場の擁護論には
一般的に
二つの論拠がある。
一つは
福祉に関するもの、
もう一つは
自由に関するものだ。
第一に、
市場は
社会全体の福祉を
増大させる。
他人が欲しがる品物を
提供するよう
努力する
人々に与えるからだ。
第二に、
市場は
個人の自由を
尊重する。
財やサービスに
ある特定の価値を
押しつけるのでなく、
取引の対象となる
ものの価格を
各人に
自由につけさせるのだ。
当然ながら、
便乗値上げ禁止法に
反対する人々は、
このよく知られた
二つの論拠を
持ち出す。
対して、
禁止法の支持者は
どう反論するのだろうか。
第一に、
困っている時に
請求される
法外な値段が
社会全体の福祉に
資することはないと、
彼らは主張する。
高い価格のおかげで
商品の供給が増える
というメリットが
あるとしても、
その価格では
物を買えない
人々への負担も
考慮に
入れなければ
ならない。
裕福な人々にとって、
嵐の最中に高騰した
ガソリン代やモーテル代を
支払うことは
腹立たしいかもしれない。
だが、
つましい暮らしを送る
人々は
こうした価格によって
真の苦難を
強いられることになる。
安全な場所に
逃げ込む道を
閉ざされ、
危険な状態に
留まるしか
なくなってしまうからだ。
全体の福祉を
評価するには、
緊急時に
基本的な必需品の
市場から
締め出されてしまう
人々の
痛みや苦しみを
考慮しなければ
ならない。
これが、
便乗値上げ禁止法に
賛成する人々の
主張である。
第二に、
特定の状況下では、
自由市場といっても
本当に
自由なわけではないと、
彼らは主張する。
クライストが
指摘するように
「切羽詰まった
買い手に
自由はない。
安全な
宿泊施設のような
必要不可欠なものの
購入に
選択の余地は
ないのだ」
家族とともに
ハリケーンから
避難している際、
法外な
ガソリン代や宿泊費を
支払うのは
実際には
自発的な取引ではない。
それは
強要に近い
何かである。
したがって、
便乗値上げ禁止法が
正義に
かなっているかどうかを
決めるには、
福祉と自由をめぐって
対立する
これらの意見を
吟味する
必要があるのだ。
だが、
さらに
もう一つの
論点について
考えてみる
必要もある。
多くの
一般市民が
便乗値上げ禁止法を
支持するのは、
福祉とか自由というより、
もっと直感的な
理由があるからだ。
人々は
他人の窮状を
食い物にする
「ハゲタカ」
に憤慨し、
彼らが
棚ぼたの利益を
手にするのでなく、
罰せられることを望む。
こうした心情は、
社会政策や法律に
反映すべきでない
素朴な感情として
片づけられることが
多い。
ジャコビーが
述べるように、
「売り手を
悪者扱いしても
フロリダの復興が
早まることはない」
のである。
とはいえ、
便乗値上げに対する
憤りは
感情に任せた
愚かな怒りなどではない。
それは、
真剣な検討に値する
道徳的議論を
指し示しているのだ。
憤りとは
特別な種類の
怒りであり、
何かを不当に
手にしている人がいる
と思う時に生じる。
この種の憤りは
不正義に対する
怒りなのだ。
クライストが
「ハリケーンの後で
困っている人の
弱みに
つけこもうとする
人間の欲深さには、
驚きを禁じ得ない」
と述べた時、
彼は
こうした憤りの
道徳的源泉に
触れていた。
クライストは
こうした見解を
便乗値上げ禁止法に
はっきりと
結びつけたわけではない。
だが、
彼のコメントには
次のような議論が
暗に含まれている。
これは
美徳をめぐる議論
と呼んでいいだろう。
強欲とは
悪徳であり、
悪しき生き方である。
そのせいで
他人の苦しみが
目に入らない場合は
なおさらだ。
個人の悪徳
であるばかりか、
市民道徳とも
対立する。
善き社会は
困難な時期に
団結するものだ。
人々は
できるだけ
利益を上げようと
するのではなく、
互いに
気を配り合う。
危機の時代に
人々が
隣人を食いものにして
金儲けをする社会は、
善き社会ではない。
したがって、
目に余る強欲は
できる限り
抑え込むべき
悪徳なのだ。
便乗値上げ禁止法によって
強欲を消し去ることは
できないが、
恥知らずにも
堂々と
行動に表すことくらいは
防げるし、
それを認めない
という
社会の姿勢を
示すことが
できる。
社会は
強欲なふるまいを
利するのではなく
罰することによって、
公益のために
犠牲を分かち合う
という
市民道徳を
支持するのだ。
美徳をめぐる
議論において
道徳の力を
認めるとしても、
道徳の力が
反対意見に
常に優先すべきだと
言っているのではない。
たとえば、
ハリケーンに襲われた
コミュニティについて、
便乗値上げを受け入れる
という
悪魔の取引を
結ぶべきだ
という
判断が下される場合も
あるだろう。
強欲を認める
という
道徳面のマイナスに
目をつぶっても、
遠く
あちこちから
屋根職人や
建設業者を
呼び寄せるためである。
まずは
屋根の修理が
先決で、
社会の仕組みは
その後の話だ。
とはいえ、
忘れてはならない
大切なことは、
便乗値上げ禁止法をめぐる
議論は
たんなる
福祉や自由の
問題ではない
という点だ。
それは
美徳に関する
問題でもある。
善き社会の土台となる
心構えや意識、
つまり
品位を育む
という問題でも
あるのだ。
美徳をめぐる議論に
戸惑う人もいる。
便乗値上げ禁止法を
支持する人にも
そういう人は多い。
何故なら、
美徳をめぐる議論は
福祉や自由を訴える
議論よりも
独善的に
感じられるからだ。
ある政策によって
経済復興が早まるか、
経済成長が促されるか
を問う場合、
人々の好みを判断する
必要はない。
そこでは、
誰もが
少ない収入よりも
多い収入を好むもの
と仮定されており、
人々が
お金を
どう使うかは
判断の埒外である。
同じように、
切羽詰まった
状況にある人が
本当に
自由に
選択できるか
どうかを問う場合、
選択の結果を
評価する必要はない。
問題は、
人々が
強制を受けずに
自由でいられるか
どうか、
あるいは
どの程度
自由でいられるか
である。
これに対し、
美徳をめぐる議論は、
強欲は
国家が抑え込むべき
悪徳だ
という
判断に基づいている。
だが、
何が美徳で
何が悪徳かを
判断するのは
誰なのだろうか。
多元的な社会の市民は
そうしたことに
反対するのでは
ないだろうか。
美徳に関する判断を
法律によって
押しつけるのは
危険ではないだろうか。
これらの
懸念に直面すると、
美徳とか悪徳とかいった
問題について
政府は
中立であるべきだと、
多くの人々は
考える。
善き心構えを養い、
悪しき心構えを改めさせよう
などというのは、
政府がすべきことでは
ないのだ。
便乗値上げに対する
我々の反応を
探ってみると、
二つの方向性が
あることがわかる。
何かを
不当に
手に入れている人が
いれば、
我々は
憤りを感じる。
他人の窮状を
食いものにする
強欲は
罰せられるべきであり、
報酬を与えられるべきではない。
ところが、
美徳に関する
判断が
法律に入り込むとなると
懸念を感じるのだ。
このジレンマは
政治哲学の
重要な問題の一つを
示している。
正義にかなう社会とは
市民の美徳を
養おうとするもの
だろうか。
それとも、
美徳をめぐる
相容れない
考え方に対して
中立を守り、
市民が
最善の生き方を
自ら選択できるように
するものだろうか。
教科書的な説明では、
この問題によって
古代と近現代の
政治思想が
分かれることになる。
ある重要な面で、
教科書は正しい。
アリストテレスは、
正義とは
人々に相応しいものを
与えることだと
教えている。
何が誰に相応しいかを
決めるには、
どんな美徳が
名誉や報酬に値するかを
決めなければならない。
アリストテレスは、
まず
最も望ましい
生き方について
考えなければ、
何が正義にかなう法律かは
わからないと述べている。
アリストテレスにとって、
法律は
善き生という問題から
中立ではありえないのだ。
対照的に、
十八世紀の
二十世紀の
ジョン・ロールズにいたる
近現代の
政治哲学者によれば、
我々の権利を規定する
正義の原則は、
美徳、
あるいは
最善の生き方についての
いかなる特定の考えをも
土台とすべきではない
という。
正義にかなう社会とは、
各人が
善き生に関する
自らの考えを選ぶ自由を
尊重するものなのだ。
したがって、
正義をめぐる
古代の理論は
美徳から出発し、
近現代の理論は
自由から出発する
と言えるかもしれない。
この先、
我々は
それぞれの見方の
強みと弱みを
探っていく。
だが、
こうした対比は
誤解を招く
恐れがあることは、
最初に
知っておいていいだろう。
というのも、
現代政治を
動かしている
正義
――哲学者ではなく
一般市民にとっての
正義――
に目を向ければ、
状況は
もっと複雑だからだ。
たしかに、
我々の議論の大半は、
少なくとも
表面上は
経済的繁栄の促進と
個人の自由の尊重に
関するものだ。
だが、
そうした議論を
指示したり、
時には
批判したりしながら、
我々は
別種の信念を
垣間見ることが多い。
――つまり、
どんな美徳が
栄誉や報酬に
値するか、
善き社会では
どんな生き方が
奨励されるべきかに
かかわる信念を、だ。
経済的繁栄と自由を
愛しながらも、
我々は
正義の独善的要素を
すっかり
振り払ってしまうことは
できない。
正義には
選択の自由はもちろん
美徳も含まれている
という
信念は
根深いものだ。
正義について
考えるなら、
我々は
否が応でも
最善の生き方について
考えざるをえないのである。
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