ひょっぽこ読書記録No.126 『孤独の価値』森博嗣 幻冬舎新書 ー抜粋8箇所
『孤独の価値』
・人生には
金も
さほど
いらないし、
また
それほど
仲間というものも
必要ない。
一人で
暮らしていける。
しかし、
もし
自分の人生を
有意義に
したいのならば、
それには
唯一
必要なものがある。
それが
自分の思想なのである。
・ここでは、
まず
何故、
孤独は
寂しいのか
ということを
考えてみたいのだが、
その前に、
孤独というものの
だいたいの
定義をしておく
必要があるだろう。
人によって、
どんな状態を
孤独と
表現するのか、
これには
かなり
違いがあるかと
思う。
ある人は、
友達がいないことだと
言うし、
また
ある人は、
仲間と一緒の時に
孤独を感じると
言う。
まるで
正反対のようにも
思われるけれど、
僕は
個人的には、
後者が近いのではないか
と考えている。
つまり、
人が
孤独を感じる時
というのは、
他者を
必ず
意識している、
と思うからだ。
友達がいない、
というのも
意味が
様々である。
友達というものが
最初から
まるで
いないのか、
あるいは、
かつては
いたのに
今は
いない、
という
意味なのかで、
ずいぶん
違ってくる。
いなくなった
という場合でも、
その
いなくなった友達は
どうしたのか。
友達が
みんな
死んでしまって、
一人だけが
残された
というような場合も
あれば、
喧嘩をして、
友達が
離れていった、
というようなものも
あるだろう。
・人間の社会が
ここまで
発展を遂げたのは、
本能よりも
「思考」を
重視したからだ。
本能というのは、
つまりは
「欲望」
である。
何だか
理由は
よくわからないけれど、
どうしても
それを
したくなってしまう、
というものに対して、
「思考」によって
それらを
抑制することが
人間の
人間たる部分では
ないだろうか。
好き勝手にしては
いけない、
周りと話し合い、
強調し合うことで、
今の
文明や文化を
築き上げた。
また、
個人であっても、
目先の欲望に
囚われず、
将来を見据えて
計画的に
物事を進める、
という
姿勢こそが、
人間だけが
成しえる
生き方といえる。
そういったものは、
本能ではなく、
本能に逆らった
行動だ。
そこに、
人間の
人間たる価値がある
といっても
過言ではないだろう。
であれば、
大勢がいて
賑やかに感じる、
周囲に
友人がいると
楽しい、
そういった状況を
求める欲望も、
思考によって
抑制できるはずである。
それについては、
後述するつもりだが、
結局は、
ここに、
「孤独」
というものを
考える
基本がある。
「孤独について考える」
というだけでも、
これは
既に
本能ではないし、
人間以外の動物に
できることではない。
これを
考えられるだけの
思考力を
持っていることに、
人間の尊厳がある
と思う。
だから、
「孤独は嫌だ」
と感情的(本能的)に
全否定してしまう前に、
ちょっと考えてみる、
という
姿勢は
大事だと思う。
孤独を考えることは、
それだけでも
価値がある
人間らしい行動なのだ。
もっと
大袈裟に言えば、
孤独を考えることは、
人として
生きていることの
価値でもあり、
これからも
生きていくための
意味でもある、
と僕は思う。
・はっきり言えるのは、
孤独を感じない人間は、
人間としての能力が
不足している、
ということである。
「寂しいと
何か
良いことがある?」
そう尋ねる人も
たぶん
いるだろう。
それが、
実は
ある。
色々な面で、
そういうことが
実際に
ある。
わかりやすい話を
まず
すると、
「賑やか」なのは
良いこと、
その反対の
「寂しい」のは
悪いこと、
というように
一般に
捉えられているけれど、
この場合の
「寂しい」というのは、
「静かで落ち着いた状態」
というふうにも
言い換えられる。
パーティなどは
賑やかだが、
茶室の中は
静かだ。
日本古来の
伝統美には、
「わび、さび」の
精神があることは
ご存知だろう。
これは、
つまり
「侘しい」こと、
「寂しい」ことだ。
自然の中、
山奥へ
足を踏み入れると、
そこには
都会にはない
静けさがある。
これは
「寂しさ」以外の
なにものでもない。
こういった環境が、
人間にとって
マイナスだとは
決して
言えないはずだ。
むしろ、
そういった
「静けさ」が
とても大事な
場面がある。
たとえば、
ものを考える時には、
「賑やかさ」は
煩くて邪魔になるだけだ。
数学の問題を
解く時には、
周りで
友達が楽しそうに
騒いでいる場所は、
明らかに
マイナスではないか。
中には、
「寂しいと
色々
考えてしまって
余計に
憂鬱になる」
という人もいる。
この言葉が
示しているのは、
「賑やかなところでは
何も考えなくても良い」
という点である。
もしかして、
人は
思考停止を
本能的に
望んでいるのだろうか、
と思えるほどである。
考えることが
苦痛だ、
と感じる人には、
寂しさは
確かに
マイナスかも
しれない。
寂しさの
プラス面が
活用できない、
ということに
なるからだ。
では、
音楽を聴く時は
どうだろうか。
自分の好きな音楽を
じっくり
聴きたい時には、
周りは
静かなほうが
良いのでは?
音楽を
真剣に聴くという
「精神集中」は、
実は
思考に近いものだと
僕は
思っている。
同様に、
読書に浸る、
絵を描くことに没頭する、
というのも
思考に近い。
これらに
共通しているのは、
「個人の活動」であって、
静かな環境が
相応しい。
大勢の中にあっては、
気が散ってしまい、
やりにくくなる。
このように
少し考えるだけで、
寂しさや孤独が、
実は
人間にとって
非常に大事なものだ
ということが
わかってくるはずだ。
・ドラマになりにくい、
感動を作りにくい、
という面があって、
孤独の大事さを広く
(特に子供たちに対して)
伝えることを
長年
怠ってきた。
人気のある
キャラを作って、
人気のある
アイドルを使って、
多くの
エンタテインメントは
作られるが、
それらは
例外なく
「つながり」を
アピールする。
そうすることが
商売にとって
有利だからだ。
こんなものばかりに
現代の子供は
浸っているのだから、
どうしても
洗脳されてしまう。
みんなと同じことを
しなければ
ならない。
学校へ行ったら
一人でも
多くの友達を
作らなければ
ならない。
力を合わせ
みんなで
成し遂げることが
美しい。
感動とは、
みんなで一緒に
作るものだ。
それが、
現代の
「良い子」たちである。
大勢が、
「感動」をもらおうと
口を開けている
ヒナのように
見える。
自分の頭の中から
湧き出る
本当の
「感動」を
知らない。
誰もいないところで、
一日中
ただ一匹の虫を
見ているだけで、
素晴らしい感動が
得られることを
体験することが
できないのだ。
このような
洗脳から
生み出されるのは、
「孤独を怖れ、
人と繋がる感動に
飢えた人々」
であり、
これは
すなわち、
「大量生産された感動」
を買ってくれる
「良い消費者」
に他ならない。
企業は
こんな大衆を
望んでいる。
社会は、
こんなふうにして、
消費者という
ヒナを飼育して、
利益を
得ているのだ。
いうなれば、
「家畜」
である。
僕には、
こんな大勢は
眠っているように
(意思がないように)
見えてしまう。
ごく素直な視点から
眺めれば
そう見える、
ということだ。
けれども、
家畜は
ある意味で
幸せかもしれないし、
本人が
知覚していなければ
「寂しい」わけでも
何でもない。
それは
それで良い。
口出しするつもりは、
僕には
ない。
ただ、
その家畜たちが、
ごく少数のオタクを
指さして、
「あいつは
寂しいな」
と笑うのは、
間違い
というよりも、
滑稽だ
と感じるだけである。
どちらが寂しいか
という
問題でもない。
どちらも、
自分の
好きなようにすれば
良い。
少々筆が滑ったが、
つまり、
僕が
ここで
あえて
過激に書いたのは、
少々の
カウンタ・パンチを
打たないと、
気づかない人が
多いためだ。
大勢は
少数を否定するが、
少数は
大勢を認めているのである。
お互いが
認め合うのが
筋ではないのか、
ということを
言いたかっただけだ。
商売の観点からすると、
「寂しい」ことは
「売れない」ことであって、
経営における
死活問題になる。
これが、
商売の生死感だ。
だから、
できる限り
「寂しくない」ような
演出を
しなければ
ならない。
また例が悪いかも
しれないが、
たとえば、
スポーツ選手が
勝つために
努力するのは、
非常に
個人的な活動であり、
そこには
必ず
孤独があるはずだ。
けれども、
その選手が
勝利した時の
インタビューでは、
「一人で
コツコツとやってきた
甲斐がありました」
とは言えない。
「応援してくれた
皆さんのおかげです」
といった
言葉になるのである。
それを聞いた
子供たちは、
「感動をもらった」
というような言葉を
鵜呑みにして、
「僕も
みんなから
注目されたい」
と考えるだろう。
そのスポーツ選手は、
ファンがいなければ
業界が傾くから、
宣伝文句として
そう言っているだけである。
つまり、
コマーシャルの
キャッチコピーなのだ。
年齢を重ねれば、
だんだん
わかってくることでも、
子供は
そうは受け取らない、
という点を
忘れないほうが
良いだろう。
・ところで、
愛を歌った曲
というものが
たくさん
ある。
大勢の人たちが
音楽を聴いている。
愛とは
無関係のものを
テーマにした曲
というのは、
むしろ
少数派なのではないか。
それで、
その
「愛の歌」
というのは、
楽しい愛を
歌ったものか、
それとも
悲しい愛
(破れた愛、
失われた愛)を
歌ったものか、
どちらが
多いだろう?
これは、
数えるまでもなく、
たぶん
後者だと思う。
おそらく、
そういう曲のほうが
大勢に
受け入れられる。
多くの人の
心を打つ、
ということだ。
音楽だけではない。
たとえば、
映画にしても
ドラマにしても、
順風満帆な愛を
描いた作品
というものは
極めて少ない。
最後は
ハッピーエンドに
なるものでも、
その大半は、
悲しい場面、
はらはらする場面だ。
これも
歌と同じで、
そういったものが
大衆に望まれている、
と見ることができる。
それと同時に、
作り手にとっても、
楽しみよりも、
悲しみの中から
創作は
生まれやすい、
ということが
いえるだろう。
たとえば、
あなたが
作品を作る側の
人間だったとして
想像してみてほしい。
恋人と
楽しい毎日を
送っている
その最中には、
作品なんか
作る気にならない。
しかし、
ちょっと喧嘩をしたり、
別れてしまったり、
という孤独が訪れた時には、
打ち拉がれるものの、
その悲しい感情を
作品にぶつけよう
という
気持ちが
湧き上がってくるものだ。
多くの創作者は、
過去の孤独を
思い出して、
作品を
創造することが
多いはずだ。
今は
幸せであっても、
過去に
自分が味わった孤独、
たとえば、
愛する人との別れ、
親しい人との死別、
そういった喪失感を
記憶の中から
蘇らせ、
自分を
孤独の中に
侵しつつ
創作に
挑むのではないか。
つまり、
孤独を
まったく知らない人間には、
このような
創作はできない。
他者の作品で
疑似体験した
「孤独」では、
どうも
嘘っぽくなってしまう。
何かしら
ディテールが
不足しているし、
もちろん
あまりにも
杓子定規で、
どこにでもある
ありきたりのパターンに
陥ってしまうだろう。
すなわち、
創作を生み出すものも、
やはり
孤独なのである。
そういう面では、
孤独は
生産的だともいえる。
創作を仕事にする
プロのクリエイターに
とってみれば、
孤独は
金になる。
金銭的にも
価値のある状況
といっても
過言ではない。
芸術というのは、
人間の
最も醜いもの、
最も虚しいもの、
最も悲しいもの、
そういった
マイナスのものを
プラスに
変換する行為だといえる。
これは、
覚えておいて
損はない。
たとえば、
もし
耐えられないような
孤独のどん底に
自分があると
思ったら、
絵を描いてみたり、
詩を書いてみたり、
そういった
創作をすることを
是非
すすめたい。
絵を見る、
本を読む
という
受け身の行為では
効果は
あまり
ない。
それでは
ますます
孤独感を
強くする
危険さえある。
しかし、
自分で
創り出す行為に
時間を
費やせば、
気持ちの一部は
必ず
昇華される。
もし、
そういった才能を
少しでも
持っているなら、
何でも良いから
試してみることを
おすすめする。
絵でも
詩でも
音楽でも
演劇でも
どんなものでも
良い。
アートであれば
その機能が
あるはずである。
自分は、
芸術なんかに
まったく
無縁だ、
という人は、
この手法が
使えない。
しかし、
今時
そんな人が
いるだろうか。
自分が
気づいていないだけ
かもしれない、
と付け加えておこう。
言い方は悪いが、
芸術家の一部は、
自分の不幸を
自慢しているようなものだ。
傍からは
そんなふうに見える場合が
往々にしてある。
でも、
それで感動できる
少数の人たちが
必ず
存在する。
芸術というのは、
万人に
受け入れられるものではない。
つまり、
エンタテインメントではない。
それに、
何よりも、
その作品を
創り上げる
そのプロセスにおいて、
少なくとも
作者は
救われるのである。
もちろん、
自殺してしまった
芸術家も多いから、
完全には
救われなかったとも
いえるかもしれないが……。
・前章では、
孤独が
人間にとって
とても大切なものだ
ということを
述べ、
主に
それは
創作の動機になる、
という点を
指摘した。
本章では
さらに
踏み込んで、
この創作の動機に
何故、
孤独が
良い作用を
もたらすのか、
という点を
考えてみたい。
それ以前に
断っておきたいことがある。
「創作」
という行為の
重要性に、
一般の方の多くは
気づいていないのではないか、
と想像するからである。
たとえば、
普通のビジネスマンの
仕事を
考えてみても、
「創作」
と呼べるような
ルーチンは
それほど
多くない。
「芸術なんて、
自分には
無関係のものだ」
と多くの人が感じ、
つまり、
孤独なんて
自分には
役に立たない、
と早合点してしまう
かもしれない。
それは違う、
ということを
まず書いておきたい。
世の中の
大きな流れを
見てみると、
かつては
人間の仕事の
大半は、
肉体労働だった。
それが、
機械類の進歩によって
軽減されている。
その後は、
人間の仕事の
多くは、
事務的な作業に
移った。
しかし、
これも
デジタル技術の発展によって、
次第に減りつつある。
そういった
大きな流れの中で、
人間に残されている
仕事は、
主に
人間同士の
関係の調整に
移行している。
会議などで
意見を調整したり、
戦略的な方向性を
見定めたり、
といった
企業のトップに
任されている仕事に
近づいている。
しかし、
それらの仕事には
大勢は
必要ない。
少数のエリートによる
頭脳を使った
作業になるからだ。
したがって、
生産行為に関わるような
仕事においては、
とにかく
働き口が
減少する、
というのが
今の流れで、
もう
かなり
それが
進んでいる段階といえる。
働き口がないという人
(失業者といって
良いだろうか)は、
当然ながら
増えている。
しかし、
失業者が増えても、
生産はされているので、
社会としては
豊かになる。
すべてを
機械に任せて、
人間は
遊んでいても良い、
という
状況に
近づいている、
と極論しても、
さほど
間違っていない。
だから、
仕事のない人が
増えても、
それは
当然の成り行きといえる。
生産性が落ちなければ、
働かない(働けない)人の
面倒も
見ることができる。
これが
社会保障というものだ。
しかし、
人間は
遊んでばかりでは、
なかなか
充実感を持って
生きられない。
社会のために
自分が
役に立っている、
という実感が欲しい。
そこで
台頭するのが、
人間が
人間に対して
サービスをするような
職種である。
この中には、
情報を伝える仕事や、
人を感動させる
芸能やスポーツが
含まれるだろう。
この分野の仕事は、
前述の
肉体労働や事務労働が
減少した分、
どんどん
割合を増している。
衣食住に関わる
品の生産は、
人々が生きるために
不可欠な活動だが、
情報や感動は、
どうしても
なければならない、
というものではない。
昔は
そもそも
なかった分野だ。
大衆が
豊かになって、
そういうものに
お金を使えるように
なったし、
そういうサービスが
どんどん
安くなって、
誰でも利用できる
社会になった、
というわけである。
報道やスポーツは
創作とは
いえないだろうけれど、
芸能は
アートが基本にあって、
これは、
基本的に
個人の
「創作」が
生み出す価値を
売り物にしている。
映画やアニメのように、
大勢で協力しなければ
生産できないものも
多々あるけれど、
しかし、
スタート地点は
やはり
個人の発想、
アイデア、
そして
イメージである。
それ以外にも、
レジャー産業がある。
人が遊べる環境を
商品にするのだが、
ここでも、
新しい価値を
生み出すのは、
創造的な発想である。
というのは、
たとえば、
伊勢神宮の観光で
儲けようとしても、
伊勢神宮自体は
どうこうすることは
難しい。
そうではなく、
それに関連した
イメージを創る、
という仕事になる。
実体ではなく
イメージを売るのだ。
このことは、
普通の製品でも
今や
顕著で、
技術的な面では、
優劣がつきにくいほど
業界は成熟しているので、
やはり、
いかに
イメージを
付加価値として
創作するか、
という点が
重要になってきている。
結局、
トータルとして
俯瞰すれば、
人間の肉体の活動が
不要になり、
頭脳の処理的作業も
不要になり、
今や
人間の仕事の
領域は、
頭脳による
「発想」へと
シフトしている。
「創作」的な活動が、
人間の仕事に占める
割合は、
これからも
どんどん
増え続けるはずだ。
したがって、
芸術なんて無縁だ
という人であっても、
これからは、
それでは
食べていけなくなりますよ、
とアドバイスができると思う。
特に
まだ何十年も
働かなければならない
年齢だったら、
なおさらだろう。
![孤独の価値【電子書籍】[ 森博嗣 ] 孤独の価値【電子書籍】[ 森博嗣 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/rakutenkobo-ebooks/cabinet/6340/2000002606340.jpg?_ex=128x128)
- 価格: 794 円
- 楽天で詳細を見る