ひーぶろぐ。

読書していたときに心に触れた言葉を残しています。

ひょっぽこ読書記録No.167 『モーゼの反論』タルムード

 

にほんブログ村 本ブログ 本・読書情報へ
にほんブログ村

 

《モーゼの反論》

 

 

 

 神

「エジプトに

 お前が行って

 ユダヤ人全員を

 救い出してこい」

 

 モーゼ

「それは無理ですよ。

 名もない私が行って、

 ユダヤ人に向かって

 救出に来たと言っても

 誰も信用しませんよ」

 

 神

「私がついておる。

 安心せい。

 私がお前を

 エジプトに

 派遣するのだ」

 

 モーゼ

「神様、

 冗談言っちゃ

 困りますよ。

 私が

 エジプトに行って

 ユダヤ人全員の前で、

『お前たちの神が

 私を派遣した。

 私は

 神の使いとして

 お前たちを

 救出に来た』

 と言ったら、

 ユダヤ人は

 何と言うと

 思いますか。

『神だって?

 聞いたことないな。

 その神の名は

 何なんだ?』

 と質問するに

 決まってますよ。

 私は

 なんと答えれば

 いいんですか?」

 

 神

「私は私だ」

 

 モーゼ

「そんなんじゃ

 ユダヤ人は

 納得しませんよ。

 お前は

 神を見たことあるのか

 と聞いてきますよ。

 そう聞かれたら

 どう答えるんですか?」

 

 神

「心配するな。

 私が奇跡を

 見せてやるから」

 

 モーゼ

「私は

 口下手で

 演説も

 上手くできません。

 ユダヤ人を

 説得できませんよ」

 

 神

「誰が人間に

 喋ることを

 与えたのだ。

 私が人間に

 口を与え

 言葉を与えたのだ。

 安心せい。

 お前には

 私がついている」

 

 

・疑問の精神こそ

 道を拓く。

「NO」

 そして

「because」

 を言う訓練をする。

「何故?」

 を忘れると

 思考停止に

 なってしまう。

 

 

 こうしたやり取りが

 神とモーゼの間で

 延々と

 七日間も続く。

 ユダヤには

 神と

 交渉したり、

 口論したり、

 あるいは

 食ってかかる話が

 たくさんある。

 ユダヤ人は

「何故?」

 と、

 疑問を持つことの

 大切さを、

 非常に

 重んじている。

 実際、

 人々が考えることをやめ、

「何故?」

 という言葉を

 忘れた時、

 神は

 怒って

 大きな試練を

 人々に

 与えたのである。

 ヘブライ聖書の

バベルの塔

 の話を

 ご存じだろうか。

 この時

 世界の言葉が

 統一され、

 一人の権力者が

「天にまで届く

 塔を作ろう」

 と提案する。

 ここで神の怒りが

 爆発するのだが、

 神が気に入らなかったのは、

 天に届く

 超高層ビル

 作ろうとしたことではなく、

 ろくに考えもせず、

 議論もせず、

 みんなが

 容易に賛成したことだった。

「人間どもは、

 同じように

 ものを考えると、

 ろくなことがない!」

 と、

 塔を破壊し、

 統一された言語を

 バラバラにして

 世界各地で

 言葉が通じないように

 してしまったのである。

 同じ言葉を使って、

 同じように考えると、

「何故?」

 という

 疑問が

 起こらなくなり、

 思考停止が

 始まる。

 神は

 そうなることを

 封じたのである。

 日本は

 全員が

 金太郎飴のように

 同じことを考え

「和を以って尊しとなす」

 調和と同情を

 重んじる。

 だから

 思考が停止する。

 思考が停止するから、

 全員が悪いことをしている

 という

 意識すら

 持たなくなってしまう。

 モーゼの言う

 ユダヤ人たちの言動は

 いかにも不遜だ。

 何しろ、

 神である証拠を見せろ、

 じゃないと

 誰が信用するかと、

 神の存在を

 突き放している。

 日本で、

 お釈迦さまや弁天様に

 こんな態度で

 接する人々の

 小咄があるだろうか。

 ユダヤでは、

 目に見えない

 神の存在までも

「疑っていい」

 とされているのである。

 それほどに、

「議論を持つ」

 ことは

 叡智の源泉になると

 理解されているのである。

 

PVアクセスランキング にほんブログ村