ひょっぽこ切り抜きノート《暴走する路面電車》(『これから正義の話をしよう』より)
《暴走する路面電車》
『これから正義の話をしよう』より抜粋
・あなたは
路面電車の運転士で、
時速96㎞で
疾走している。
前方を見ると、
5人の作業員が
工具を手に
線路上に立っている。
電車を止めようとするが、
できない。
ブレーキが
きかないのだ。
頭が
真っ白になる。
5人の作業員を
はねれば、
全員が死ぬと
わかっているからだ。
ふと……、
右へと逸れる
待避線が
目に入る。
そこにも
作業員がいる。
だが、
1人だけだ。
路面電車を
待避線に
向ければ、
1人の作業員は
死ぬが
5人は
助けられることに
気づく。
どうすべきだろうか?
ほとんどの人は
こう言うだろう。
「待避線に入れ!
何の罪もない
1人の人を殺すのは
悲劇だが、
5人を殺すよりは
ましだ」
5人の命を救うために
1人を犠牲にするのは、
正しい行為のように
見える。
さて、
もう一つ
別の物語を
考えてみよう。
今度は、
あなたは
運転手ではなく
傍観者で、
線路を見下ろす
橋の上に
立っている。
今回は
待避線はない。
線路上を
路面電車が
走ってくる。
前方には
作業員が
5人いる。
ここでも、
ブレーキは
きかない。
路面電車は
まさに
5人をはねる
寸前だ。
大惨事を防ぐ
手立ては
見つからない。
そのとき、
隣に
とても太った
男がいることに
気がつく。
あなたは
その男を
橋から突き落とし、
疾走してくる
路面電車の行く手を
阻むことが
できる。
その男は
死ぬだろう。
だが、
5人の作業員は
助かる。
ここで、
あなたは
自分で飛び降りることも
考えるが、
小柄すぎて
電車をとめられないことが
わかっている。
その太った男を
線路上に
突き落すのは
正しい行為だろうか?
ほとんどの人は
こう言うだろう。
「もちろん
正しくない。
その男を
突き落すのは
完全な間違いだ」
誰かを
橋から突き落として
確実な死に
至らしめるのは、
5人の命を
救うためであっても、
実に恐ろしい行為のように
思える。
しかし、
だとすれば
ある道徳的な難題が
持ち上がることになる。
最初の事例では
正しいと見えた原理
――――
5人を救うために
1人を犠牲にする
――――
が2つ目の事例では
間違っているように
見えるのは
何故だろうか?
最初の事例に対する
我々の反応が
示すように、
数が重要だとすれば、
つまり
1人を救うより
5人を救うほうが
良いとすれば、
どうして
この原理を
第2の事例に当てはめ、
太った男を
突き落さないのだろうか。
正当な理由があるにしても、
人を突き落として
殺すのは
残酷なことに思える。
しかし、
1人の男を
路面電車で
はねて殺すほうが、
残酷さが
少ないのだろうか。
突き落すのが
間違っている理由は、
橋の上の男を
本人の意思に反して
利用することかもしれない。
何しろ、
彼は
事故に関わることを
選んだわけではない。
ただ
そこに立っていただけなのだ。
しかし、
待避線で働いていた
作業員にも
同じことが
言えるだろう。
彼もまた
事故に関わることを
選んだわけではない。
ただ
仕事をしていただけで、
路面電車が
暴走した場合に
自分の命を捧げると
申し出たわけではない。
鉄道作業員は
傍観者が取らない
リスクを
進んで取るものだ
という意見が
あるかもしれない。
しかし、
緊急時に
自分の命を捨てて
他人の命を救うことは
職務記述書に
書かれていないし、
自分の命を
投げ出す気が
あるかどうかは、
橋の上の傍観者であろうと
作業員であろうと
変わらないものとしよう。
どうやら、
道徳上の差は
犠牲者に与える影響
――――
両方の事例とも
結局は死んでしまう
――――
にではなく、
決定を下す人の
意図にあるらしい。
路面電車の運転士である
あなたは、
電車の進路を変える
という選択を
こう言って
弁護するかもしれない。
作業員の死は
予見できたかもしれないが、
自分の意図は
彼を殺すことでは
なかったのだと。
思いもよらない
幸運にあずかって、
5人の作業員の命が
助かり、
6人目も
どうにか
死なずに済んだとしても、
あなたの目的は
達成されたはずなのだ。
だが
太った男を突き落とす
事例についても
同じことが言える。
橋から突き落とした
男の死は、
あなたの目的にとって
不可欠な事態ではない。
必要なのは
路面電車を
止めることだけだ。
もし
そうすることができて、
理由はともかく
彼が死なずに済めば、
あなたは
大いに喜ぶだろう。
あるいは
よく考えていると、
2つの事例は
同じ原理に
支配されているに
違いない。
両方とも、
罪のない
1人の命を
奪うことによって、
さらに多くの命が
奪われるのを
防ぐという
意識的な選択を
含んでいる。
男を
橋から突き落とすのに
及び腰になるのは、
ただ
気分が悪いからに過ぎず、
克服すべき
逡巡なのかもしれない。
素手で
男を突き落として
殺すのは、
路面電車の
ハンドルを回すよりも
残酷な仕打ちに思える。
だが、
正しいことを行うのは
必ずしも
容易ではないのだ。
話を少し変えれば
この考えも検証できる。
傍観者である
あなたは、
隣に立っている
太った男を
押さなくても
線路上に
落とせるものとしよう。
たとえば、
その男は
落とし戸の上に
立っていて、
あなたが
ハンドルを回せば
落とし戸が開くと
想像してほしい。
突き落さなくても
同じ結果になるわけだ。
こうすれば、
あなたの行いは
正しいものに
なるだろうか。
それとも、
路面電車の運転士として
待避線に
ハンドルを切るよりも
道徳的に
悪いことなのだろうか。
これらの事例の
道徳的な違いを
照明するのは
なかなか
難しい。
電車の方向を変えるのは
正しく、
男を橋から突き落とすのは
間違っているように
思えるのは
何故だろうか。
しかし、
我々が
こんなプレッシャーを
感じているのを
忘れてはならない。
もっともだと
感じられる
この違いに至る道筋を
論理的に導き出す
必要がある
――それが
できなければ、
各事例における
正しい行為についての
判断を
見直さざるを得ない、と。
時に
我々は、
道徳的な論証を
他人を説得する方法だと
考えることがある。
だが
それは、
自分自身の道徳的信念を
整理し、
自分が
何を、
また
どうして
信じるのかを
理解する方法でも
あるのだ。
道徳的ジレンマの中には、
対立する道徳的原理から
生じるものがある。
たとえば、
路面電車の物語に関わる
1つの原則は、
できるだけ
多くの命を
救うべし
というものだ。
ところが
別の原理は、
正当な理由があっても
無実の人を殺すのは
間違いだという。
多くの命を救うために
罪のない1人を
殺さざるを得ない
という状況に
直面すると、
我々は
道徳的に
板挟みになる。
どちらの原理が
より重要なのか、
あるいは、
こうした状況では
どちらが
より適切なのかを
はっきりさせねば
ならない。
他の道徳的ジレンマが
生じるのは、
事態が
どう展開するかが
はっきりとは
わからないからだ。
路面電車の物語のような
架空の例では、
我々が
実生活で出会う選択に
つきものの
不確実な要素は
取り除かれている。
ハンドルを
切らなければ――
あるいは
男を突き落とさなければ――
何人死ぬかが
確実にわかっていると
されているのだ。
そのため、
こうした物語は
行動指針としては
不完全である。
だが
一方で、
道徳的分析の手段としては
有効なものと
なっている。
不測の事態――
「作業員が
路面電車に気付いて
飛びのいたとしたら?」
――を脇に置くことによって、
問題となる
道徳的原理を分離し、
その力を
検証するのに
役立つのである。
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