ひーぶろぐ。

読書していたときに心に触れた言葉を残しています。

ひょっぽこ読書記録No.168 『金貨に憧れた男』バビロンの大富豪の教え

 

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《金貨に憧れた男》

 

 

 

 バビロンの

 二輪馬車職人

 バンジールは、

 すっかり

 やる気を

 失くしていた。

 自宅を囲む

 低い堀に

 腰かけて、

 つましい

 我が家と、

 作りかけの

 二輪馬車が

 置かれた

 屋根なしの

 作業場を、

 悲しげに

 見つめる。

 

 開け放した

 戸口には、

 妻が

 しきりと

 姿を見せた。

 妻が

 こちらを

 忍び見る度、

 食料が

 底をつきかけていることを

 思い出し、

 仕事に戻って

 早く

 馬車を

 仕上げなくては

 と気が咎める。

 槌や鉈をふるい、

 磨いて

 塗装し、

 車輪に

 革を

 ぴっちりと張り、

 すぐにも

 引き渡せる

 状態にして、

 裕福な顧客から

 代金を

 受け取れるように……。

 

 それでも、

 バンジールの

 丸々とした

 筋肉質の体は、

 堀の上で

 ぼんやりと

 動かなかった。

 鈍った頭で、

 答えの見つからない

 疑問と

 粘り強く

 格闘している。

 ユーフラテス川流域ならではの、

 肌を焦がすような

 太陽が

 容赦なく

 照りつけていた。

 眉の上に

 汗のしずくが溜まり、

 いつの間にか

 顔を伝い落ちては、

 黒々とした

 胸毛の中に

 消えてゆく。

 

 我が家の向こうに、

 王宮を囲む

 階段状の城壁が

 高く

 そびえ立っていた。

 そのすぐそばに、

 青い天空を

 切り裂いて、

 ベル神殿の

 彩色された

 聖塔が

 屹立する。

 それら

 絢爛たる

 建築物の陰に、

 簡素な

 我が家が、

 そして、

 見るからに

 貧弱で

 むさ苦しい

 家々が

 びっしりと

 立ち並ぶ。

 バビロンとは、

 かくのごとき街だ。

 偉大と卑小、

 眩いばかりの富と

 凄まじい貧困が

 同居し、

 街の周壁の

 内側に

 何の計画も

 秩序もなく

 ひしめき合っている。

 

 背後を

 もし振り返れば、

 金持ちの乗る

 二輪馬車が、

 裸足の物乞いも

 サンダルを履いた商人も

 ひとしなみに

 押しのけながら、

 けたたましく

 突き進んでいるのが

 見えたことだろう。

 その金持ちたちでさえ、

 “王の要務”を担う

 水汲み奴隷たちの

 長い列に

 出会うと、

 脇に退いて

 道を開けなくては

 ならない。

 奴隷たちの運ぶ

 山羊革の

 重い袋に

 入っているのは、

 空中庭園に撒かれる

 水だった。

 

 バンジールは

 疑問に

 心塞がれていて、

 活気溢れる街の

 種々雑多な

 ざわめきも

 耳に入らず、

 気に留まらなかった。

 そこへ

 思いがけず、

 耳慣れた

 竪琴の調べが

 聞こえてきて、

 はっと

 我に返る。

 振り向くと、

 親友の

 楽師

 コビの

 繊細な

 笑顔があった。

 

「貴君に

 神々より

 惜しみなき

 ご加護の

 あらんことを、

 我が友よ」

 コビは

 仰々しい

 挨拶で

 話を始めた。

「とはいえ、

 すでに

 神々の

 ご加護に

 たっぷりと

 恵まれて、

 働く

 必要がない

 と見受ける。

 君の

 その幸運を、

 俺もともに

 祝うとしよう。

 いや、

 何なら、

 分け前に

 あずかってやっても

 いいぞ。

 忙しく

 立ち働かぬところを

 見ると、

 財布が

 さぞ

 膨らんでいる

 のだろうから、

 どうか

 ほんの

 2シケルばかり

 そこから

 取り出して、

 今宵の

 貴人の宴が

 終わるまで

 貸してはくれまいか。

 その金が

 戻るまで、

 君が

 不自由することも

 なかろう」

 

「もし

 俺が

 2シケル

 持っていても」

 バンジールは

 陰気な声で

 返した。

「誰にも

 貸しは

 すまいよ。

 たとえ

 親友の

 お主でもな。

 あったとすれば、

 それは

 俺の財産、

 しかも

 全財産だ。

 全財産を

 人に貸す者は

 いない。

 たとえ

 相手が

 親友だろうと」

 

「なんと」

 コビが

 心底

 驚いて

 声を上げる。

「財布に

 1シケルもない

 というのに、

 彫像のごとく

 塀に座しているとは!

 何故、

 あの二輪馬車を

 仕上げない?

 他に

 いかなる方法で、

 貴き食欲を

 満たすのだ?

 君らしからぬことを、

 我が友よ。

 汲めど尽きぬ

 あの活力は、

 何処へ

 消えた?

 何か、

 憂いの種でも

 あるのか?

 神々が

 災いを

 もたらしたのか?」

 

「神々が与えた

 苦しみに

 違いない」

 バンジールは

 認めた。

「この苦しみは、

 ある馬鹿馬鹿しい夢から

 始まっているのさ。

 俺は

 その夢の中で

 資産家に

 なっていた。

 腰帯に提げた

 立派な財布は、

 貨幣で

 ずしりと

 重かった。

 俺は

 いとも

 気軽に、

 シケル貨を

 掴み出しては、

 物乞いに

 投げ与えた。

 銀貨も

 どっさり

 持っていて、

 それで

 女房に

 よそ行きの服を

 買ってやったし、

 自分でも

 あれこれ

 欲しいものを

 買った。

 金貨も

 たんまり

 あって、

 おかげで

 将来に

 不安はなく、

 銀貨を

 心置きなく

 使えた。

 素晴らしく

 満ち足りた

 気分が

 体に

 みなぎっていた!

 あれを

 もし

 お主が見ても、

 この働き者の

 友の姿とは

 気づかなかったろう。

 それに、

 女房にも

 気づかなかったろう。

 何しろ

 女房の顔は

 皴ひとつなく、

 幸せに

 光り輝いていたからな。

 新婚の頃の、

 笑みを絶やさぬ

 乙女に

 戻っていた」

 

「それは

 また

 楽しい夢を」

 コビが

 評する。

「だが、

 どうして

 それほど

 楽しい

 思いをしながら、

 しかめっ面の

 彫像のごとく

 塀に

 座り込むことに

 なったのだ?」

 

「いや、

 まったく!

 目が覚めて、

 財布が

 空っぽなことを

 思い出したら、

 悔しさが

 どっと

 湧いてきたのさ。

 ひとつ、

 そのことについて

 話してみよう

 じゃないか。

 船乗りの言葉を

 借りれば、

 俺たちは

 “同じ船に

 乗り合わせた

 者同士”だ。

 子供の頃、

 俺たちは

 神官のもとで

 共に学んだ。

 青年時代は、

 お互いの喜びを

 分かち合った。

 大人になってからも、

 ずっと

 親しく

 付き合ってきた。

 俺たちなりに、

 一臣民として

 不満もなく

 暮らしてきた。

 長時間

 働き、

 稼いだ金で

 好きなことをする

 生活に、

 満足してきた。

 何十年というもの、

 お互いに

 びた銭を

 しこたま

 稼いだが、

 いまだ

 富のもたらす

 喜びを

 知らず、

 ただ

 夢に見るのみだ。

 ふん!

 愚かな羊たちと

 どれほどの差が

 ある?

 俺たちは

 世界で一番

 裕福な都に

 暮らしている。

 旅人に聞いても、

 豊かさで

 これに匹敵する

 街はない

 という。

 豊かさを

 見せつけるものが

 そこら中に

 溢れていて、

 だが、

 どれひとつ

 俺たちのものではない。

 人生の半分を

 重労働に

 費やした挙句、

 我が親しき友よ、

 お主の財布は

 空っぽで、

 俺に

『今宵、

 貴人の宴が

 終わるまで、

 ほんの

 2シケル

 貸してくれ』

 と頼む始末だ。

 それで、

 この俺は

 何と返事をする?

『さあ、

 ここに

 財布がある。

 要るだけ

 持っていけ』

 とでも言うか?

 いや、

 俺の財布とて、

 お主と同じく

 空っぽだ。

 いったい、

 何が

 いけないのか?

 どうして

 俺たちは、

 金貨や銀貨を、

 食いものや服に

 費やして

 余りあるほどの金を、

 手にすることが

 できないのか?

 

 息子たちのことも、

 考えてみるがいい。

 父親たちの

 二の舞に

 なりはしないか?

 息子も、

 その家族も、

 そして

 息子の息子も、

 そのまた家族も

 みな、

 この黄金の都の只中で

 暮らしながら、

 俺たちと同じく、

 腐りかけた

 山羊の乳と粥という

 食事で

 満足して

 生きていくのか?」

 

「何十年という

 付き合いの中で、

 君が

 そんな風に

 愚痴を

 こぼしたことは

 一度も

 なかったがな、

 バンジール」

 コビが

 戸惑った

 顔をする。

 

「この何十年、

 こんな風には

 考えたことは

 一度も

 なかったさ。

 早暁に

 起き出して

 夕闇の帳が

 下りるまで、

 俺は

 誰にも負けない

 二輪馬車を

 作ろうと

 働き続け、

 いつか

 神々が

 俺の

 殊勝な行いに

 目を留めて、

 大いなる栄華を

 与えてくださると

 無邪気に

 考えていた。

 だが、

 ついぞ

 そのようなことは

 なかった。

 俺は

 ようやく、

 我が身に

 栄華など

 訪れまいと

 悟ったよ。

 それゆえ、

 心が

 暗いのだ。

 俺は

 資本家に

 なりたい。

 土地や家畜を

 所有して、

 いい服を着て、

 財布を

 銭で

 いっぱいにしたい。

 そのためなら、

 この体の

 ありったけの力を、

 この手の

 ありったけの技を、

 この頭の

 ありったけの知恵を、

 精一杯

 掻き立てもしようが、

 やはり

 正当な

 報酬あってこその

 労働

 というものだろう。

 ここで

 もう一度きく!

 

 なにゆえに

 俺たちは、

 欲しい品々を

 我がものに

 できないのか?

 それを贖う

 金貨を持った

 連中の周りには、

 贅沢な品が

 溢れている

 というのに」

 

「俺に

 わかるものか!

 満ち足りぬことにかけては、

 俺も君と

 おっつかっつだ。

 竪琴で得た

 稼ぎは、

 羽が生えたように

 消えてゆく。

 よほど

 慎重に

 使い道を

 練らぬことには、

 家族を

 飢えさせる羽目に

 なりかねん。

 我慢は

 そればかりではない。

 俺は、

 心に湧き出でた

 調べを

 みごと

 奏でられる

 竪琴が、

 欲しくて

 たまらんのだ。

 そのような

 楽器があれば、

 王ですら

 耳にしたことのない

 妙なる

 調べを

 披露できようものを」

 

「お主は

 そんな竪琴を

 持つべきだ。

 バビロン広し

 といえども、

 お主より

 美しく

 竪琴を

 奏でる者は

 いない。

 その調べは、

 王どころか、

 神々をも

 喜ばせる。

 されど

 お互い、

 王の奴隷並みに

 貧しい身で、

 どうやって

 それだけの名器を

 買えるだろう?

 おや、

 鐘の音だ!

 やつらが

 来るぞ」

 バンジールの

 指差す先には、

 半裸で

 汗を浮かべた

 水汲み奴隷の

 長い列が、

 河から続く

 狭い通りを

 苦し気に

 進んでいた。

 横5列に並んだ

 奴隷たちは

 みな、

 担いだ

 山羊革の

 水袋の重みに

 背を丸めている。

 

「精悍な

 面構えだな、

 先頭を歩く

 あの男」

 コビが

 言うのは、

 鐘を手にして、

 荷を背負わず

 列を率いる

 男のことだった。

「自国では

 さぞ

 傑物だったのだろう。

 見るだけで

 わかる」

 

「列の中にも、

 立派な

 風采の者が

 たくさん

 いる」

 バンジールが

 頷く。

「俺たちと同じ、

 真っ当な人間ばかりだ。

 背の高い

 金髪の者たちは

 北方から、

 肌の黒い

 陽気な者たちは

 南方から、

 小柄で

 褐色の者たちは

 近隣の国々から

 来たのだろう。

 それが

 一団となって、

 河から庭園へと、

 来る日も来る日も、

 くる年も来る年も

 行き来するのだ。

 先の楽しみは

 何もない。

 藁の寝床で

 眠り、

 不味い穀物粥を

 食べる日々――。

 畜生同然の身を、

 哀れには

 思わぬか、

 コビ!」

 

「ああ、

 思うさ。

 だが、

 自由民を

 名乗る

 我らとて、

 さほど

 変わりない身の上だ

 ということを、

 君は

 言いたいのだろう」

 

「まさに

 そうだ、

 コビ。

 思えば

 不愉快だが、

 現に

 そうなのだから

 仕方ない。

 望み虚しく、

 俺たちは

 来る年も来る年も、

 奴隷のような

 暮らしを

 強いられる。

 働いて、働いて、

 ただ働くばかりで、

 何処へも

 行き着けない

 暮らしをな」

 

「懐の暖かい

 連中が

 どうやって

 金貨を

 得ているのか、

 探ってみる手は

 ないだろうか?」

 コビが

 問いかける。

 

「その全てを

 知る者に

 聞けば、

 何か

 秘訣を

 学べるかも

 しれないな」

 バンジールは

 思案顔になった。

 

「さっき

 ちょうど、

 我らが

 古き友

 アルカドが

 黄金の二輪馬車で

 通るのに

 出くわした。

 あれほどの

 身分であれば、

 俺ごときの

 卑しき顔に

 目もくれなくて

 当然だろうに、

 あやつは

 なんと、

 見過ごさなかった。

 俺に

 わざわざ

 手を振って、

 周りの

 全ての者たちに、

 自分が

 楽師の

 コビに

 挨拶をし、

 友情の笑みを

 贈っていることを

 知らしめたのだ」

 

「アルカドは、

 バビロン一の金持ちだと

 言われている」

 

「あまりに

 金持ちだから、

 王は

 アルカドに、

 国庫への

 献金

 求めているそうだ」

 と、コビ。

 

「あまりに

 金持ちだから」

 と、バンジール。

「夜の闇の中で

 会おうものなら、

 奴の

 肥え太った

 財布に

 手をかけずには

 いられないだろうよ」

 

「たわごとは

 よせ」

 コビが

 たしなめる。

「富は、

 財布に入れて

 持ち運ぶものではない。

 いかに

 肥え太った財布も、

 滔々と流れる

 黄金の河が

 なかったら、

 たちまち

 空になる。

 アルカドは、

 どれほど

 気前よく

 散財しようと、

 常に

 財布を

 満たすだけの

 収入源を

 持っているのだ」

 

「収入源、

 それだな」

 バンジールは

 声を上げた。

「堀に

 腰かけている時も、

 あるいは

 遠くに

 旅をしている時も、

 たえず

 財布に

 注ぎ込む

 湧き水のような

 収入が

 あったらなあ。

 アルカドは

 そういう泉を

 掘り当てる

 方法を

 知っているに

 違いない。

 それは、

 俺みたいな

 ぼんくらでも、

 聞いて

 わかるような

 方法だろうか」

 

「アルカドは

 確か、

 息子の

 ノマジールに

 その知恵を

 授けたはずだ」

 コビが

 答える。

「酒場の

 噂によれば、

 ノマジールは

 ニネヴェの

 都に赴き、

 父親からの

 援助もなしに、

 かの地で

 指折りの

 大金持ちに

 なったのでは

 なかったか」

 

「コビ、

 お主は

 実に

 貴重な

 思いつきを

 授けてくれた」

 バンジールの目に、

 新たな光が

 宿った。

「よき友に

 賢明な

 助言を

 求める分には

 1シケルも

 かからないだろうし、

 アルカドは

 ずっと

 よき友だった。

 俺たちの

 財布が、

 1年前の

 鷹巣のごとく

 空っぽであろうと、

 気に病むことはない。

 そんな理由で

 躊躇うまいぞ。

 あり余る

 金貨に

 囲まれながら

 それを

 持てない

 生活に、

 俺たちは

 ほとほと

 嫌気が

 差している。

 俺たちは

 資産家に

 なりたい。

 さあ、

 アルカドに

 会いに行って、

 どうやったら

 俺たちも

 富の泉を

 掘り当てられるのか、

 教えを請うと

 しよう」

 

「君こそ、

 真の

 ひらめきに

 満ちた話を

 してくれたよ、

 バンジール。

 俺の頭に

 新たな悟りを

 もたらしてくれた。

 我々が

 何故

 富を生み出す

 手立てを

 見つけられなかったのか、

 おかげで

 納得できた。

 その手立てを

 探そうとも

 しなかったからだ。

 君は

 地道に

 働いて、

 バビロンで

 一番

 頑丈な

 二輪馬車を

 作ってきた。

 その志のために、

 最大限の

 努力を

 払ってきた。

 それゆえに、

 ひとかどの

 職人になれた。

 俺は

 竪琴の

 名手になろうと

 精進してきた。

 そして、

 ひとかどの

 楽師になれた。

 

 我々は

 互いに、

 精一杯

 力を尽くして、

 己の道を

 極めた。

 神々は、

 我々が

 こうやって

 働き続けるだけで

 よしとされた。

 今

 ようやく、

 我々は

 光を、

 昇る朝日のように

 眩い光を

 目にしている。

 その光は

 我々に、

 さらに

 学び栄えよと

 命じている。

 新たな

 悟りを得て、

 我々は

 誉れある道を

 見つけ、

 自らの願望を

 叶えるだろう」

 

「今日、

 この日に、

 アルカドのもとへ

 行こう」

 バンジールは

 熱のこもった

 口調で言った。

「ついでに、

 我々と

 大差ない

 暮らしぶりの

 旧友たちを

 誘って、

 アルカドの

 知恵を

 共に

 分かち合うとしよう」

 

「相変わらず

 友人思いだな、

 バンジール。

 だから、

 君には

 友達が

 多い。

 君の

 言う通りだ。

 今日、

 この日に、

 みんなで

 連れ立って

 出かけよう」

 

 

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ひょっぽこ読書記録No.167 『モーゼの反論』タルムード

 

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《モーゼの反論》

 

 

 

 神

「エジプトに

 お前が行って

 ユダヤ人全員を

 救い出してこい」

 

 モーゼ

「それは無理ですよ。

 名もない私が行って、

 ユダヤ人に向かって

 救出に来たと言っても

 誰も信用しませんよ」

 

 神

「私がついておる。

 安心せい。

 私がお前を

 エジプトに

 派遣するのだ」

 

 モーゼ

「神様、

 冗談言っちゃ

 困りますよ。

 私が

 エジプトに行って

 ユダヤ人全員の前で、

『お前たちの神が

 私を派遣した。

 私は

 神の使いとして

 お前たちを

 救出に来た』

 と言ったら、

 ユダヤ人は

 何と言うと

 思いますか。

『神だって?

 聞いたことないな。

 その神の名は

 何なんだ?』

 と質問するに

 決まってますよ。

 私は

 なんと答えれば

 いいんですか?」

 

 神

「私は私だ」

 

 モーゼ

「そんなんじゃ

 ユダヤ人は

 納得しませんよ。

 お前は

 神を見たことあるのか

 と聞いてきますよ。

 そう聞かれたら

 どう答えるんですか?」

 

 神

「心配するな。

 私が奇跡を

 見せてやるから」

 

 モーゼ

「私は

 口下手で

 演説も

 上手くできません。

 ユダヤ人を

 説得できませんよ」

 

 神

「誰が人間に

 喋ることを

 与えたのだ。

 私が人間に

 口を与え

 言葉を与えたのだ。

 安心せい。

 お前には

 私がついている」

 

 

・疑問の精神こそ

 道を拓く。

「NO」

 そして

「because」

 を言う訓練をする。

「何故?」

 を忘れると

 思考停止に

 なってしまう。

 

 

 こうしたやり取りが

 神とモーゼの間で

 延々と

 七日間も続く。

 ユダヤには

 神と

 交渉したり、

 口論したり、

 あるいは

 食ってかかる話が

 たくさんある。

 ユダヤ人は

「何故?」

 と、

 疑問を持つことの

 大切さを、

 非常に

 重んじている。

 実際、

 人々が考えることをやめ、

「何故?」

 という言葉を

 忘れた時、

 神は

 怒って

 大きな試練を

 人々に

 与えたのである。

 ヘブライ聖書の

バベルの塔

 の話を

 ご存じだろうか。

 この時

 世界の言葉が

 統一され、

 一人の権力者が

「天にまで届く

 塔を作ろう」

 と提案する。

 ここで神の怒りが

 爆発するのだが、

 神が気に入らなかったのは、

 天に届く

 超高層ビル

 作ろうとしたことではなく、

 ろくに考えもせず、

 議論もせず、

 みんなが

 容易に賛成したことだった。

「人間どもは、

 同じように

 ものを考えると、

 ろくなことがない!」

 と、

 塔を破壊し、

 統一された言語を

 バラバラにして

 世界各地で

 言葉が通じないように

 してしまったのである。

 同じ言葉を使って、

 同じように考えると、

「何故?」

 という

 疑問が

 起こらなくなり、

 思考停止が

 始まる。

 神は

 そうなることを

 封じたのである。

 日本は

 全員が

 金太郎飴のように

 同じことを考え

「和を以って尊しとなす」

 調和と同情を

 重んじる。

 だから

 思考が停止する。

 思考が停止するから、

 全員が悪いことをしている

 という

 意識すら

 持たなくなってしまう。

 モーゼの言う

 ユダヤ人たちの言動は

 いかにも不遜だ。

 何しろ、

 神である証拠を見せろ、

 じゃないと

 誰が信用するかと、

 神の存在を

 突き放している。

 日本で、

 お釈迦さまや弁天様に

 こんな態度で

 接する人々の

 小咄があるだろうか。

 ユダヤでは、

 目に見えない

 神の存在までも

「疑っていい」

 とされているのである。

 それほどに、

「議論を持つ」

 ことは

 叡智の源泉になると

 理解されているのである。

 

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ひょっぽこ読書記録No.166 『ハリケーン・チャーリーの被害』これから正義の話をしよう

 

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《ハリケーン・チャーリーの被害》

  『これから正義の話をしよう』より

 

 

 

 2004年夏、

 メキシコ湾で発生した

 ハリケーン・チャーリーは、

 猛烈な勢いを保ったまま

 フロリダを横切って

 大西洋へ抜けた。

 22人の命が奪われ、

 110億ドルの被害が

 生じた。

 チャーリーは

 通過した後に

 便乗値上げを巡る論争まで

 残していった。

 

 オーランドの

 あるガソリンスタンドでは、

 1袋2ドルの氷が

 10ドルで売られていた。

 8月の半ばだというのに

 電気が止まって

 冷蔵庫やエアコンが

 使えなかったため、

 多くの人々は

 言い値で買うより

 仕方がなかった。

 木々が吹き倒されたせいで、

 チェーンソーや屋根の修理の

 需要が増加した。

 家の屋根から

 2本の木を

 取り除くだけで、

 業者は

 なんと

 2万3000ドルを

 要求した。

 小型の家庭用発電機を

 通常は

 250ドルで

 売っている店が、

 ここぞとばかりに

 2000ドルの

 値札をつけていた。

 老齢の夫と

 障害を持つ娘を連れて

 避難した

 77歳の婦人は、

 いつもなら

 1晩40ドルの

 モーテルで

 160ドルを

 請求された。

 

 多くのフロリダ住民が

 物価の高騰に

 憤りを隠さなかった。

USAトゥデイ』紙には

「嵐の後でハゲタカがやってきた」

 という見出しが

 躍った。

 ある住民は、

 屋根から

 倒れた木

 1本をどかすのに

 1万500ドルかかる

 と言われ、

「他人の

 苦境や不幸を

 儲けの種にしよう

 とする」連中は

 間違っている

 と語った。

 フロリダ州司法長官

 チャーリー・クライストも

 同じ意見で、

「ハリケーンの後で

 困っている人の

 弱みにつけこもうとする

 人間の欲深さには、

 驚きを禁じ得ない」

 と述べた。

 

 フロリダ州には

 便乗値上げを禁じる

 法律があるため、

 ハリケーン・チャーリーの

 直後には

 司法当局に

 2000件を超える

 苦情が寄せられた。

 なかには

 裁判で

 勝訴を勝ち取った

 例もあった。

 ウェスト・パームビーチの

 モーテル<デイズ・イン>は

 法外な宿泊料をふっかけた

 顧客に対し、

 罰金と賠償金合わせて

 7万ドルを

 支払う羽目になったのだ。

 

 ところが、

 クライストが

 便乗値上げ禁止法を

 執行した時でさえ、

 一部の経済学者は

 その法律や

 一般市民の怒りは

 見当違いだと

 主張した。

 中世の

 哲学者や神学者は、

 商品の取引は

 伝統や商品本来の価値で

 決まる

「正しい価格」を

 もとに行われるべきだ

 と考えていた。

 しかし

 市場社会の経済学者は、

 価格は

 需要と供給によって

 決まる

 と言った。

「正しい価格」

 といったものは

 存在しない

 というのだ。

 

 自由市場を信奉する

 経済学者の

 トーマス・ソーウェルは、

 便乗値上げというのは

「感情には

 強く訴えるかもしれないが

 経済学的には

 意味のない表現で、

 ほとんどの経済学者が

 なんの注意も

 払わない。

 曖昧すぎて

 わざわざ

 頭を悩ませるまでも

 ないからだ」

 と述べた。

 ソーウェルは

『タンパ・トリビューン』紙上で

「『便乗値上げ』のおかげで

 フロリダの住民が

 どれほど助かるか」

 を説明しようとした。

 ソーウェルによれば、

 便乗値上げが非難されるのは

「人々が慣れている

 価格より

 かなり高い場合」

 だという。

 しかし

「人々が

 たまたま

 慣れている

 価格のレベル」

 が道徳的に不可侵だ

 などということはない。

 その価格は

 市場の条件がもたらす

「別の価格と比べて

 特別でもなければ

『公正』

 でもない」

 のだ。

 それが、

 たとえ

 ハリケーンによって生じた

 条件であったとしても。

 

 ソーウェルは

 こう論じた。

 氷、

 ボトル入り飲料水、

 屋根の修繕代、

 発電機、

 モーテルの部屋代などが

 通常よりも

 高いおかげで、

 こうした

 商品やサービスの

 消費が

 抑えられる一方、

 はるかな遠隔地の

 業者にとって

 ハリケーンの後で

 最も必要とされている

 商品やサービスを提供する

 インセンティブ

 増すことになる。

 8月の猛暑の最中の

 停電で困っている

 フロリダの住民に、

 氷が

 1袋10ドルで

 売れるとなれば、

 製氷会社は

 どんどん

 増産して

 出荷するのが

 得策だと

 気づくはずだ。

 こうした価格に

 なんら不正なところは

 ないと、

 ソーウェルは

 説明した。

 売り手と買い手が

 取引する

 品物に置く価値を

 反映しているに

 すぎないのである。

 

 市場を支持する

 評論家の

 ジェフ・ジャコビーは、

ボストン・グローブ』紙上で

 同じような論拠から

 便乗値上げ禁止法に

 反対した。

「市場でつく価格を

 請求することは

 暴利行為ではない。

 強欲でも

 恥知らずでもない。

 それは

 自由な社会で

 財やサービスが

 分配される

 仕組みなのだ」

 という。

 ジャコビーは

「物価の急騰は

 ひどく

 腹立たしいことであり、

 恐ろしい嵐のせいで

 生活が

 混乱している人にとっては

 なおさらだ」

 と認めていた。

 だが、

 一般市民の怒りは

 自由市場への干渉を

 正当化するものではない。

 一見

 法外な価格も、

 必要な商品の

 増産を促す

 インセンティブ

 生産者に

 与えることによって、

「害よりも

 はるかに多くの

 益をもたらす」

 というのだ。

「売り手を

 悪者扱いしても

 フロリダの復興が

 早まることはない。

 売り手には

 思う存分

 商売をさせてやることだ」

 というのが

 ジャコビーの

 結論だった。

 

 先の

 クライスト司法長官

共和党員で

 後のフロリダ州知事)は

『タンパ・トリビューン』紙の

 論説コラムで、

 便乗値上げ禁止法を擁護する

 論陣を張った。

「緊急事態において、

 人々が

 命からがら

 避難している時、

 あるいは

 ハリケーンの後で

 家族のための必需品を

 手に入れようとしている時、

 良心に照らして

 不当な価格を

 請求されているとすれば、

 政府はそれを

 傍観するわけには

 いかない」

 クライストは、

 こうした

「良心に照らして

 不当な」価格が

 真に自由な取引に

 基づいている

 という考えを

 否定した。

 

 これは

 正常な

 自由市場の

 状態ではない。

 自発的な買い手が

 自由意思で

 市場に参入し、

 自発的な売り手に

 出会い、

 需給に応じて

 価格が

 合意されている

 わけではないからだ。

 緊急事態では、

 切羽詰まった

 買い手に

 自由はない。

 安全な

 宿泊施設のような

 必要不可欠なものの

 購入に

 選択の余地は

 ないのだ。

 

 ハリケーン・チャーリーが

 通り過ぎた後で

 巻き起こった

 便乗値上げをめぐる

 論争は、

 道徳と法律に関する

 難問を提起している。

 商品やサービスの

 売り手が

 自然災害に乗じ、

 市場でつく

 価格であれば

 いくらでも

 請求することは

 間違っているのだろうか。

 だとすれば、

 法律は

 何をすべきだろうか。

 売り手と買い手が持つ

 取引の自由に

 介入することになっても、

 州は

 便乗値上げを

 禁止すべきなのだろうか。

 

 

 これらの問題は、

 個人が

 お互いを

 どう扱うべきか

 というテーマに

 かかわるだけではない。

 法律は

 いかにあるべきか、

 社会は

 いかに組み立てられるべきか

 というテーマにも

 かかわっている。

 つまり、

 これは

「正義」

 にかかわる

 問題なのだ。

 これに答えるためには、

 正義の意味を

 探求しなければ

 ならない。

 実は、

 我々は

 すでに

 その探求を

 始めている。

 便乗値上げをめぐる

 論争を

 詳しく見てみれば、

 便乗値上げ禁止法への

 賛成論と反対論が

 三つの理念を中心に

 展開されていることが

 わかるだろう。

 つまり、

 福祉の最大化、

 自由の尊重、

 美徳の促進である。

 これらの

 三つの理念は

 それぞれ、

 正義に関して

 異なる考え方を

 提示している。

 

 束縛のない

 市場の擁護論には

 一般的に

 二つの論拠がある。

 一つは

 福祉に関するもの、

 もう一つは

 自由に関するものだ。

 第一に、

 市場は

 社会全体の福祉を

 増大させる。

 他人が欲しがる品物を

 提供するよう

 努力する

 インセンティブ

 人々に与えるからだ。

 第二に、

 市場は

 個人の自由を

 尊重する。

 財やサービスに

 ある特定の価値を

 押しつけるのでなく、

 取引の対象となる

 ものの価格を

 各人に

 自由につけさせるのだ。

 

 当然ながら、

 便乗値上げ禁止法に

 反対する人々は、

 このよく知られた

 二つの論拠を

 持ち出す。

 対して、

 禁止法の支持者は

 どう反論するのだろうか。

 第一に、

 困っている時に

 請求される

 法外な値段が

 社会全体の福祉に

 資することはないと、

 彼らは主張する。

 高い価格のおかげで

 商品の供給が増える

 というメリットが

 あるとしても、

 その価格では

 物を買えない

 人々への負担も

 考慮に

 入れなければ

 ならない。

 裕福な人々にとって、

 嵐の最中に高騰した

 ガソリン代やモーテル代を

 支払うことは

 腹立たしいかもしれない。

 だが、

 つましい暮らしを送る

 人々は

 こうした価格によって

 真の苦難を

 強いられることになる。

 安全な場所に

 逃げ込む道を

 閉ざされ、

 危険な状態に

 留まるしか

 なくなってしまうからだ。

 全体の福祉を

 評価するには、

 緊急時に

 基本的な必需品の

 市場から

 締め出されてしまう

 人々の

 痛みや苦しみを

 考慮しなければ

 ならない。

 これが、

 便乗値上げ禁止法に

 賛成する人々の

 主張である。

 

 第二に、

 特定の状況下では、

 自由市場といっても

 本当に

 自由なわけではないと、

 彼らは主張する。

 クライストが

 指摘するように

「切羽詰まった

 買い手に

 自由はない。

 安全な

 宿泊施設のような

 必要不可欠なものの

 購入に

 選択の余地は

 ないのだ」

 家族とともに

 ハリケーンから

 避難している際、

 法外な

 ガソリン代や宿泊費を

 支払うのは

 実際には

 自発的な取引ではない。

 それは

 強要に近い

 何かである。

 したがって、

 便乗値上げ禁止法が

 正義に

 かなっているかどうかを

 決めるには、

 福祉と自由をめぐって

 対立する

 これらの意見を

 吟味する

 必要があるのだ。

 

 だが、

 さらに

 もう一つの

 論点について

 考えてみる

 必要もある。

 多くの

 一般市民が

 便乗値上げ禁止法を

 支持するのは、

 福祉とか自由というより、

 もっと直感的な

 理由があるからだ。

 人々は

 他人の窮状を

 食い物にする

「ハゲタカ」

 に憤慨し、

 彼らが

 棚ぼたの利益を

 手にするのでなく、

 罰せられることを望む。

 こうした心情は、

 社会政策や法律に

 反映すべきでない

 素朴な感情として

 片づけられることが

 多い。

 ジャコビーが

 述べるように、

「売り手を

 悪者扱いしても

 フロリダの復興が

 早まることはない」

 のである。

 

 とはいえ、

 便乗値上げに対する

 憤りは

 感情に任せた

 愚かな怒りなどではない。

 それは、

 真剣な検討に値する

 道徳的議論を

 指し示しているのだ。

 憤りとは

 特別な種類の

 怒りであり、

 何かを不当に

 手にしている人がいる

 と思う時に生じる。

 この種の憤りは

 不正義に対する

 怒りなのだ。

 

 クライストが

「ハリケーンの後で

 困っている人の

 弱みに

 つけこもうとする

 人間の欲深さには、

 驚きを禁じ得ない」

 と述べた時、

 彼は

 こうした憤りの

 道徳的源泉に

 触れていた。

 クライストは

 こうした見解を

 便乗値上げ禁止法に

 はっきりと

 結びつけたわけではない。

 だが、

 彼のコメントには

 次のような議論が

 暗に含まれている。

 これは

 美徳をめぐる議論

 と呼んでいいだろう。

 

 強欲とは

 悪徳であり、

 悪しき生き方である。

 そのせいで

 他人の苦しみが

 目に入らない場合は

 なおさらだ。

 個人の悪徳

 であるばかりか、

 市民道徳とも

 対立する。

 善き社会は

 困難な時期に

 団結するものだ。

 人々は

 できるだけ

 利益を上げようと

 するのではなく、

 互いに

 気を配り合う。

 危機の時代に

 人々が

 隣人を食いものにして

 金儲けをする社会は、

 善き社会ではない。

 したがって、

 目に余る強欲は

 できる限り

 抑え込むべき

 悪徳なのだ。

 便乗値上げ禁止法によって

 強欲を消し去ることは

 できないが、

 恥知らずにも

 堂々と

 行動に表すことくらいは

 防げるし、

 それを認めない

 という

 社会の姿勢を

 示すことが

 できる。

 社会は

 強欲なふるまいを

 利するのではなく

 罰することによって、

 公益のために

 犠牲を分かち合う

 という

 市民道徳を

 支持するのだ。

 

 美徳をめぐる

 議論において

 道徳の力を

 認めるとしても、

 道徳の力が

 反対意見に

 常に優先すべきだと

 言っているのではない。

 たとえば、

 ハリケーンに襲われた

 コミュニティについて、

 便乗値上げを受け入れる

 という

 悪魔の取引を

 結ぶべきだ

 という

 判断が下される場合も

 あるだろう。

 強欲を認める

 という

 道徳面のマイナスに

 目をつぶっても、

 遠く

 あちこちから

 屋根職人や

 建設業者を

 呼び寄せるためである。

 まずは

 屋根の修理が

 先決で、

 社会の仕組みは

 その後の話だ。

 とはいえ、

 忘れてはならない

 大切なことは、

 便乗値上げ禁止法をめぐる

 議論は

 たんなる

 福祉や自由の

 問題ではない

 という点だ。

 それは

 美徳に関する

 問題でもある。

 善き社会の土台となる

 心構えや意識、

 つまり

 品位を育む

 という問題でも

 あるのだ。

 

 美徳をめぐる議論に

 戸惑う人もいる。

 便乗値上げ禁止法を

 支持する人にも

 そういう人は多い。

 何故なら、

 美徳をめぐる議論は

 福祉や自由を訴える

 議論よりも

 独善的に

 感じられるからだ。

 ある政策によって

 経済復興が早まるか、

 経済成長が促されるか

 を問う場合、

 人々の好みを判断する

 必要はない。

 そこでは、

 誰もが

 少ない収入よりも

 多い収入を好むもの

 と仮定されており、

 人々が

 お金を

 どう使うかは

 判断の埒外である。

 同じように、

 切羽詰まった

 状況にある人が

 本当に

 自由に

 選択できるか

 どうかを問う場合、

 選択の結果を

 評価する必要はない。

 問題は、

 人々が

 強制を受けずに

 自由でいられるか

 どうか、

 あるいは

 どの程度

 自由でいられるか

 である。

 

 これに対し、

 美徳をめぐる議論は、

 強欲は

 国家が抑え込むべき

 悪徳だ

 という

 判断に基づいている。

 だが、

 何が美徳で

 何が悪徳かを

 判断するのは

 誰なのだろうか。

 多元的な社会の市民は

 そうしたことに

 反対するのでは

 ないだろうか。

 美徳に関する判断を

 法律によって

 押しつけるのは

 危険ではないだろうか。

 これらの

 懸念に直面すると、

 美徳とか悪徳とかいった

 問題について

 政府は

 中立であるべきだと、

 多くの人々は

 考える。

 善き心構えを養い、

 悪しき心構えを改めさせよう

 などというのは、

 政府がすべきことでは

 ないのだ。

 

 便乗値上げに対する

 我々の反応を

 探ってみると、

 二つの方向性が

 あることがわかる。

 何かを

 不当に

 手に入れている人が

 いれば、

 我々は

 憤りを感じる。

 他人の窮状を

 食いものにする

 強欲は

 罰せられるべきであり、

 報酬を与えられるべきではない。

 ところが、

 美徳に関する

 判断が

 法律に入り込むとなると

 懸念を感じるのだ。

 

 このジレンマは

 政治哲学の

 重要な問題の一つを

 示している。

 正義にかなう社会とは

 市民の美徳を

 養おうとするもの

 だろうか。

 それとも、

 美徳をめぐる

 相容れない

 考え方に対して

 中立を守り、

 市民が

 最善の生き方を

 自ら選択できるように

 するものだろうか。

 

 教科書的な説明では、

 この問題によって

 古代と近現代の

 政治思想が

 分かれることになる。

 ある重要な面で、

 教科書は正しい。

 アリストテレスは、

 正義とは

 人々に相応しいものを

 与えることだと

 教えている。

 何が誰に相応しいかを

 決めるには、

 どんな美徳が

 名誉や報酬に値するかを

 決めなければならない。

 アリストテレスは、

 まず

 最も望ましい

 生き方について

 考えなければ、

 何が正義にかなう法律かは

 わからないと述べている。

 アリストテレスにとって、

 法律は

 善き生という問題から

 中立ではありえないのだ。

 

 対照的に、

 十八世紀の

 イマヌエル・カントから

 二十世紀の

 ジョン・ロールズにいたる

 近現代の

 政治哲学者によれば、

 我々の権利を規定する

 正義の原則は、

 美徳、

 あるいは

 最善の生き方についての

 いかなる特定の考えをも

 土台とすべきではない

 という。

 正義にかなう社会とは、

 各人が

 善き生に関する

 自らの考えを選ぶ自由を

 尊重するものなのだ。

 

 したがって、

 正義をめぐる

 古代の理論は

 美徳から出発し、

 近現代の理論は

 自由から出発する

 と言えるかもしれない。

 この先、

 我々は

 それぞれの見方の

 強みと弱みを

 探っていく。

 だが、

 こうした対比は

 誤解を招く

 恐れがあることは、

 最初に

 知っておいていいだろう。

 

 というのも、

 現代政治を

 動かしている

 正義

――哲学者ではなく

 一般市民にとっての

 正義――

 に目を向ければ、

 状況は

 もっと複雑だからだ。

 たしかに、

 我々の議論の大半は、

 少なくとも

 表面上は

 経済的繁栄の促進と

 個人の自由の尊重に

 関するものだ。

 だが、

 そうした議論を

 指示したり、

 時には

 批判したりしながら、

 我々は

 別種の信念を

 垣間見ることが多い。

――つまり、

 どんな美徳が

 栄誉や報酬に

 値するか、

 善き社会では

 どんな生き方が

 奨励されるべきかに

 かかわる信念を、だ。

 経済的繁栄と自由を

 愛しながらも、

 我々は

 正義の独善的要素を

 すっかり

 振り払ってしまうことは

 できない。

 正義には

 選択の自由はもちろん

 美徳も含まれている

 という

 信念は

 根深いものだ。

 正義について

 考えるなら、

 我々は

 否が応でも

 最善の生き方について

 考えざるをえないのである。

 

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ひょっぽこ読書記録No.165 『神との交渉』タルムードより

 

 

《神との交渉》

 

 

 

 神

「ソムドの町は

 悪人で満ちている。

 すべて

 焼き払わねば

 なるまい」

 

 アブラハム

「ちょっと

 お待ちください。

 もし

 ソドムの町に

 五十人の善人が

 残っているとしたら、

 神様は

 善人も悪人も一緒に

 焼き払う

 おつもりですか?」

 

 神

「いいや、

 もし

 五十人も

 善人がいるなら、

 町全体を

 焼き払うことは

 しない」

 

 アブラハム

「私アブラハム

 神様から見れば

 取るに足らない

 クズのような

 人間です。

 失礼を承知で

 もう一つだけ

 お聞きしても

 良いでしょうか。

 五十人と言いましたが、

 それから

 五人ほど

 少なかっただけなら

 どうでしょうか。

 あまり変わらないと

 思いますが」

 

 神

「うむ。

 四十五人くらいなら、

 その四十五人の

 善人のために

 町は救おう」

 

 アブラハム

「失礼ながら

 もう一つ

 聞いても

 いいでしょうか。

 今、

 四十五人と

 言いましたが、

 それが

 五人ほど

 少なくとも

 町を焼き払うの

 でしょうか。

 それが

 神の正義

 というもの

 でしょうか」

 

 神

「うむ。

 四十人も

 善人がいれば、

 ソドムの町を

 救っても良い」

 

 アブラハム

「神様、

 私も

 自分でも

 少しくどいと

 思っていますので、

 お怒りにならずに

 もう一つ

 聞いてください。

 四十人から

 十人欠けて

 三十人

 善人がいても、

 町全体を

 焼き尽くす

 おつもりですか?」

 

 神

「いいや、

 三十人いれば、

 町を助けよう」

 

 こうして

 アブラハムは、

 神と交渉をし続け、

 最終的に

 十人

 善人がいれば

 町を焼き払わない

 という約束を

 取りつけたのだった。

 

 

・しつこい交渉と

 少しの成果の積み重ね。

 相手が誰であっても

 諦めない。

 

 

 ヘブライ聖書には、

 こんな調子で

 アブラハムが、

 自分のことを

 クズだの

 くどい男だのと

 へりくだりながら、

 巧妙に

 神を

 交渉の場に

 引きずり出している

 様子が、

 こと細かに

 記されている。

 そして

 最初は

 五十人の

 善人がいれば

 町を助ける

 という交渉から、

 なんと

 十人まで

 交渉を続けて

 神の譲歩を

 勝ち取るのである。

 まさに

 粘り勝ちだ。

 聖書の話には

 続きがあって、

 アブラハム

 交渉に骨を折ったものの、

 ソドムの町には

 十人も善人が

 いなかったようで、

 結局

 町は

 神の怒りに触れて

 焼き払われてしまう。

 この説話からは

 さまざまなことが

 読み取れるが、

 まずその一つは、

「どんな相手であっても

 諦めずに

 立ち向かえ」

 という

 実行する勇気である。

 相手が神であっても

 闘いを挑む

 勇気を持て

 と教えているのだ。

 残念ながら

 最後の最後で

 アブラハムの交渉は

 頓挫したが、

 もし

 善人が十人いたら

 町が助かる

 チャンスはあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ひょっぽこ読書記録No.164 『悪魔と助産婦』タルムードより

 

 

《悪魔と助産婦》

 

 

 

 ある村に

 ユダヤ人の助産婦が

 住んでいた。

 

 ある時、

 お産を助けた帰りが

 遅くなって

 凍てつく夜道を

 歩いていると、

 子猫の鳴く声を

 耳にした。

 鳴き声がする辺りを

 ロウソクで照らすと、

 捨て猫が一匹、

 凍えて死にそうに

 なっていた。

 助産婦は、

 持っていた

 温かいミルクと毛布を

 子猫に与えた。

 

 すると、

 突然

 人間の声で

 子猫が

 話し出した。

 

「私は

 悪魔です。

 他の悪魔が

 あなたを

 お産の助けに

 呼ぶかもしれません。

 でも

 人間の姿を

 しているので

 わかりません。

 その時に

 悪魔は

 報酬として

 持ちきれないほどの

 金貨を

 あなたに

 差し出すでしょう。

 それを受け取れば

 あなた自身が

 悪魔に

 なってしまいます。

 金貨に

 惑わされず、

 いつも通りの報酬を

 もらってください」

 このウィズダム

 私を助けてくれた

 お礼です」

 

 そう言い終わると、

 子猫は

 悪魔の姿になり、

 闇に消えていった。

 

 それから何か月も経った

 ある日の真夜中に、

 助産婦の家のドアを

 ドンドンと

 叩く音がした。

 ベッドから起き上がって

 ドアを開けると、

 一人の

 立派な身なりの男が

 慌てた様子で

 立っていた。

 

「妻が

 今にも

 出産しそうなので、

 急いで

 きてくれませんか」

 

 真夜中だったが、

 助産婦は

 嫌な顔をせず、

 すぐに

 支度をして

 その男の馬車に

 乗り込んだ。

 

 それから

 かなりの距離を

 走り、

 見たこともない

 お城に着いた。

 男は城主だった。

 若い妻の出産に

 ギリギリ間に合い、

 無事

 赤ん坊を

 取り上げることが

 できた。

 

「よくぞ

 こんな夜中に

 遠いところを

 来てくださった。

 私の心ばかりの

 お礼を

 ぜひ

 受け取ってください」

 

 城主は

 大層感謝し、

 召使に命じて

 重そうな袋を

 持ってこさせた。

 助産婦が

 袋を開けてみると、

 なんと

 眩い金貨で

 埋まっていた。

 

 彼女が

 一生働いても

 こんな大金は

 稼げない。

 

 貧しい助産婦は、

 思わず

 その金貨に

 手を伸ばそうとしたが、

 その瞬間、

 いつかの

 猫の忠告を

 思い出した。

 それで

 こう返事をしたのだった。

 

「こんな大金は

 受け取れません。

 銅貨一枚だけで

 結構です」

 

 銅貨一枚が

 助産婦の

 いつもの報酬だった。

 

 城主に

 何度も

 金貨を受け取るように

 言われたが、

 助産婦は

 固く辞退して、

 お城を後にした。

 馬車で送ってくれた

 城主は、

 馬車の中で

 しつこく

 聞いてきた。

 

「私が

 差し上げたい

 と言っているのだから、

 遠慮は

 いらない。

 何も

 悪いことをして

 大金を

 手にするわけではない。

 どうして

 受け取らなかったのかね?」

 

 そこで、

 助産婦は

 かつて助けた猫が

 悪魔であったことや、

 その悪魔が

 授けてくれた

 ウィズダムについて

 話した。

 

 その話を聞くと、

 城主は

 悪魔の姿になり、

「お金の誘惑に負けない

 人間がいることを

 初めて

 知った。

 この次は

 お金ではなく、

 ご馳走で

 人間を

 誘惑することにしよう」

 と呟いて

 消えた。

 

 それから

 何年も経った

 ある日、

 村のラバイが

 見知らぬ人の葬式に

 招かれた。

 ラバイは

 遠いお城に

 連れていかれたが、

 そこで

 死者を

 丁重に

 弔った。

 

 そこで城主は

 お礼にと、

 今まで

 ラバイが

 食べたこともないような

 豪華な食事に

 招いた。

 しかし、

 ラバイは

 助産婦から

 話を聞いていたので、

 思わず

 よだれが垂れそうな

 食事には

 一切手をつけず

 辞去した。

 城主は

 ラバイの前には

 二度と

 現れなかった。

 

 数年後、

 同じ村の

 モヘル

(割礼手術をする人)

 のところに、

 見知らぬ人から

 依頼が来た。

 このモヘルは

 ケチで有名だった。

「モヘルをして、

 真面目に仕事をし、

 ユダヤ教の勉強を

 しているのだから、

 寄付はしない」

 と言い、

 小間物問屋とモヘルの

 仕事で

 お金を貯め、

 一切の

 ツェダガ

(収入の十分の一を

 寄付する

 ユダヤの習慣)

 をしていなかった。

 

 モヘルが

 出向いた先は、

 立派な城で、

 男の子が

 毛布に

 くるまれていた。

 急いで

 割礼手術を施すと、

 その城主は

 大変感謝し、

「ぜひ

 受け取ってください」

 と金貨の詰まった袋を

 差し出した。

 モヘルは

 辞退した。

 すると

「では

 豪華な食事を

 ぜひ

 食べていってください」

 と言われたので、

 これも断った。

 ラバイから

 話を聞いていたからだった。

 すると

 城主は悪魔になった。

「おまえは

 ケチだと

 聞いていたが、

 金貨にも

 ご馳走の誘惑にも

 負けないので

 諦めよう。

 ただし、

 一つだけ

 忠告しよう。

 今後も

 今までのように

 ツェダガを

 しないのであれば、

 いずれ

 お前は

 悪魔の世界に

 引き込まれるであろう」

 そういうと、

 悪魔は

 消えていった。

 

 村に戻って

 ラバイに

 この話をすると、

「それは

 悪魔の

 言う通りだ」

 と、

 ラバイからも

 忠告を受けた。

 それ以来、

 このモヘルは

 心を改め、

 ツェダガを

 一生懸命

 行うようになった。

 

 

・人のために

 お金を使えば

 長く幸せになれる。

 決して

 お金の奴隷になるな。

 

 

「不相応な大金は、

 人がくれる

といっても

 手にしては

 いけない」

「不相応に

 贅沢で

 豪華な食事を

 振る舞われても、

 決して

 口にしては

 いけない」

「貧しい人のために

 寄付しなければ、

 悪いことに

 引き込まれて

 幸せには

 なれない」

 

 

 ユダヤ教では

 金儲けも食事も、

 すべて

 貧しいくらいに

 控えめにすること、

 弱い者のために

 寄付せよと

 教える。

 そして

 自分が

 お金を稼ぐ

 年齢になってからは、

 せっせと

 寄付に

 励むようになる。

 その行為が

 結局は

 自分を

 幸せにしてくれると

 信じているからだ。

 ツェダガとは、

 貧しくても

 お金持ちでも

 収入の十分の一を

 寄付しなさい

 という

 ユダヤ教の教えである。

 使い切れないで

 死ぬ時に

 地獄か天国に

 持っていくお金が

 残ることになるのは、

 ツェダガが足りなかった

 証拠であり、

「金貨が

 パンパンに

 詰まった財布には

 祝福は

 訪れない」

 というのが

 ユダヤの教えである。

 パンパンにならないように

 常に

 収入の十分の一を

 寄付するのだ。

 また、

 うまい儲け話や

 不相応な接待には

 決して

 乗らない。

 そうした話には

 必ず

 裏があり、

 悪いことに

 引き込まれる

 予兆だと

 考えるからだ。

 仕事の正当な報酬は、

 家族を

 支えるほどのもので良く、

 それ以上のものを

 差し出されても

 受け取るべきではなく、

 無論

 こちらから

 請求などしては

 ならない。

 万が一

 思いもかけない

 報酬を

 受け取ってしまったら、

 貧しい人のために

 寄付をするべきだと

 ほとんどのユダヤ人が

 考える。

 

 

「金貨は

 よい輝きを

 放つが、

 ありすぎると

 周辺の温度を

 下げる」

「金持ちに

 相続人はいても

 子供はいない」

 

 

 親の財産を

 独り占めするような

 悪しき子供に

 ならないように、

 そして

 誘惑に負けて

 金の奴隷に

 ならないように

 するためには、

 次の

 五つの心構えを

 親は教えなさいと

 ラバイは説教する。

 五つの心構えとは、

 

①適正

→身の丈にあった

 報酬、生活をせよ。

②自己規制

→日々勉強を

 重ねよ。

③自己抑制

→誘惑に負けないように

 自分を抑えよ。

④自己管理

→しっかり

 自分を管理せよ。

⑤正直

→嘘をつかず、

 正直に生きよ。

 

 ユダヤ人は

 この五つの言葉を

 いつも

 心に留めて

 生活している。

 

 

「今日

 あなたは、

 自分の

 穀物倉庫を見て

 穀物の量を

 数えようとした。

 その瞬間

 あなたは

 神から

 見放される」

 

 この格言は、

 お金や物など

「数えられるもの」に

 幸せは宿らない、

 ということを

 教えている。

 

 

「ああ、

 今日は

 これだけ

 儲かった」

「今月の収入は

 いくらだ」

 と考えた瞬間に、

 ユダヤでは

「神の庇護が

 なくなる」

 と言われている。

 

 

 

 

 

 

ひょっぽこ読書記録No.163 『ウィズダムを売る老婆』タルムード

 

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ウィズダムを売る老婆》

 

 

 

 ある村に

 貧しく

 若い夫婦が

 住んでいた。

 あまりに

 貧しいので、

 男は

 出稼ぎにいくことにした。

 遠い町で

 八年間

 働き続け、

 節約を重ねて

 袋にいっぱいの金貨を

 貯めることができた。

 男は、

 妻の元へ帰ろうと、

 徒歩で二十日間もかかる

 道のりを急いだ。

 いよいよ最後に泊まる

 宿を求めて

 ある町に入ったところで、

 男は

 金貨一枚を使って、

 待っている妻に

 何かお土産を買って

 帰ろうと思った。

 しかし、

 市場には

 何も気に入ったものが

 なかった。

 お土産を諦めて

 宿に帰ろうとした時、

 市場の片隅で

 老婆が座って

 何かを売っていた。

 男は興味を持って、

 その老婆に

「何を売っているんですか」

 と聞いてみた。

 すると

 老婆は、

ウィズダム

 売っているんですよ」

 と、

 しわくちゃの顔で

 答えた。

「そのウィズダム

 売ってください」

 と男が言うと、

「それでは、

 その袋に入った金貨

 全部

 支払ってくだされや」

 と老婆は返事をした。

 男は

 あまりにも

 値段が高いので

 驚いたが、

 ウィズダム

 何にも増して

 価値があるものだと

 思い、

 金貨を全部

 渡した。

「では教えよう。

 第一に、

 同じ目的地に

 行く道が

 二つあったら、

 決して

 近道をしようとしては

 いけない。

 時間がかかっても

 安全な大きな道を

 行きなさい。

 第二に、

 あなたの頭の中に

 怒りが込み上げてきても、

 それを

 その場で

 爆発させては

 いけない。

 一晩

 お待ちなさい。

 翌朝の考えが

 あなたを

 正しい道に

 導くでしょう」

 男は

 老婆の言った

 ウィズダムの意味を

 考えながら、

 宿に戻ろうとした。

 しかし

 ふと我に返って

 急に不安になった。

「あのウィズダム

 袋いっぱいの金貨の

 価値があるのだろうか」

 と、

 老婆がいたところに

 駆け戻った。

 そこには

 老婆の姿は

 なかったが、

 座っていた場所に

 ユダヤ人が

 肩にかけるショール、

 タリートが置いてあり、

 その下に

 先ほど支払った金貨が

 置かれているのを

 見つけた。

 男は

 不思議に思ったが、

 タリートの下の金貨を

 取り戻した。

 翌朝、

 馬車に乗り、

 家路を急いだ。

 山道に差し掛かると、

 道が二手に分かれていた。

 一つは

 山を迂回していく

 普通の道、

 もう一つは

 山を越えていく

 険しい道だった。

 険しい道のほうが

 近道だったが、

 その時

 肩にかけていた

 タリートに手が触れ、

 男は

 老婆に教えてもらった

 ウィズダム

 思い出した。

 そして、

 馬車の御者に

 時間がかかっても

 普通の道を行くように

 指示した。

 故郷の村に着いて

 聞いてみると、

 山道で

 がけ崩れがあり、

 ほとんどの馬車が

 谷底に転落した

 ということだった。

 男の到着は

 深夜だった。

 家に

 一瀉千里に

 駆けつけようと

 思ったが、

 妻が

 もう寝ているかも

 しれないと思い、

 近くの宿で

 一泊することにした。

 宿に入ると、

 なんと

 そこで

 妻が

 宿の給仕をしていた。

 ところが、

 妻は

 夫を見ても

 素知らぬ顔をしている。

 まるで

 他人に接するような態度で

 自分に給仕をするので、

 男は

 無性に

 腹が立った。

「八年間も

 俺が働いて

 帰ってきたというのに、

 素知らぬ顔というのは

 いったい

 どういうことだ。

 きっと

 他に男ができたに

 違いない」

 そう決めつけて、

 男は

 妻を

 大声で

 怒鳴りつけようとした。

 その時また、

 肩にかけている

 タリートに手が触れ、

 老婆のウィズダム

 思い出した。

 ここで

 爆発しては

 いけないと、

 一晩待ち、

 家に帰って

 ドアを開けると、

 妻が

 男に飛びついてきた。

「ああ、

 やっぱり

 あなただったのね。

 あなたに

 よく似た人を

 宿で

 見かけたんだけれど、

 立派な服装を

 しているから

 他の人かもしれないと

 思って、

 声をかけられなかったのよ。

 帰ってきてくれて

 嬉しい」

「いや、

 俺こそ

 声をかけなくて

 悪かった。

 君が

 素知らぬ顔を

 しているものだから、

 俺のことなど

 忘れてしまったのかと

 思ったんだよ」

 二人は

 抱き合って

 再会を喜んだ。

 その後、

 二人は

 力を合わせて

 仲良く

 幸せに暮らした

 ということだ。

 

 

ウィズダムには

 お金を払う。

 対価(犠牲)なしで、

 賢明さは

 身につかない。

 

 

「何事にも

 熟慮と慎重が

 大事」

 

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ひょっぽこ読書記録No.162 『ソロモン王のウィズダム』タルムード

 

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《ソロモン王のウィズダム

 

 

 

 ソロモン王が

 世紀の賢人であると

 聞きつけて、

 田舎から

 三人兄弟が

 ソロモン王に

 弟子入りしたいと

 申し込みに来た。

 三人兄弟は言った。

「私たちに

 ぜひ

 ウィズダム

 授けてください」

 それに対して

 ソロモン王は

 こう聞いた。

「お前たちに

 いつ

 ウィズダム

 与えられるか

 わからない。

 私に仕えてみる

 覚悟はあるのか」

 三人兄弟は答えた。

「はい、

 ウィズダム

 授けていただけるまで

 何年でも

 そばにいる覚悟です」

 

 こうして

 弟子として

 仕えることに

 なったのだが、

 一年経っても

 二年経っても、

 ソロモン王は

 三人兄弟に

 ウィズダム

 授ける気配すら

 見せなかった。

 三年が経過した頃、

 三人は

 忍耐の限度にきた。

 そこで、

 三人兄弟は

 ソロモン王に伝えた。

「三年

 お待ちしましたが、

 ウィズダム

 授けていただけませんでしたので、

 お暇を頂戴し、

 国に帰りたいと

 思います」

 それを聞いて、

 ソロモン王は言った。

「それは

 長い間

 ご苦労であった。

 三年

 仕えてもらった

 お礼に、

 金貨を百枚、

 一人ずつに

 渡そう。

 それを

 ウィズダムの代わりだと

 思ってほしい。

 もっとも、

 どうしても

 ウィズダム

 欲しいというのであれば、

 金貨百枚は

 渡せないが」

 これを聞いた

 三人は、

 金貨百枚の値打ちに

 目がくらみ、

「いえいえ、

 もうウィズダム

 結構です。

 金貨をいただいて

 国に帰ります」

 と言って、

 金貨をもらって

 帰国の途に着いた。

 

 しかし、

 途中で

 一番下の弟だけが

 考え直した。

「私は

 三年も

 待ったので、

 やはり

 金貨百枚を返して

 ウィズダム

 聞いてきます」

 引き返してきた

 弟が

 金貨百枚を返すと、

 ソロモン王は

 頷いて

 話し始めた。

「わかった。

 それでは

 お前に

 次の三つの

 ウィズダム

 授けよう。

 一つ、

 旅は

 陽が昇ってから

 宿を発ち、

 陽が落ちるまでに

 次の宿に入ること。

 二つ、

 川の水が

 増水している時は、

 水が引くのを

 待ってから

 渡ること。

 三つ、

 家に戻ったら

 妻には

 起こったことを

 正直に話すこと。

 この三つだ」

 

 兄二人は、

 金貨百枚を

 早く持って帰ろうと

 帰国を急いだ。

 陽が沈んでも

 山道を急ぎ

 登り続けたが、

 頂上に差し掛かる頃、

 天候が急変し、

 冷たい雨が

 降り出してきた。

 風も強く、

 濡れネズミになった

 二人は、

 暗闇で道に迷ったために

 凍死してしまった。

 一方、

 早めに

 宿に入っていた弟は

 無事であった。

 陽が昇って

 兄たちと同じ道を

 歩き出した弟は

 二人の死体を

 発見した。

 弟は悲しみ、

 兄たちを

 手厚く葬った。

 そして、

 合計二百枚の金貨を

 持って帰ることにした。

 途中で

 川に差し掛かったが、

 前日の雨で

 増水していたので、

 ソロモン王の

 ウィズダムに従い、

 水が引くまで

 渡らないことにした。

 ロバに荷物を積んだ

 何人もの商人が、

 無理やり

 川を渡ろうとして

 水に流された。

 三日間

 水が引くのを待って

 川を渡った弟は、

 向こうの川岸に

 ロバの死体が

 流れ着いていて、

 その背に

 大量の金貨が

 入った袋が

 くくりつけられているのを

 発見し、

 それを

 持って帰ることにした。

 大量の金貨を持って

 家にたどり着いた弟は、

 妻に

 ありのままの出来事を

 話した。

 妻は

 すべてを

 信用した。

 しかし、

 兄嫁たちは

 弟の話を

 全く信用せず、

 弟が

 二人の兄を殺して

 金貨を

 自分のものにしたと

 疑った。

 兄嫁二人は、

 弟を罪人として

 ソロモン王に

 告発したが、

 ソロモン王は

 兄嫁たちに、

「私が授けた

 ウィズダムに従った

 弟の話に

 嘘はない」

 と言い放って、

 無実を言い渡した。

 

 

・「懸命で賢明な生き方」

 (ウィズダム)こそ

 お金を引き寄せる。

 

 

 ウィズダムとは

 自分、

 あるいは

 自分の家族のための

「賢明な生き方のガイドライン

 である。

 具体的に言い換えれば、

「自分の

 判断、

 選択、

 行動、

 決心、

 言葉によって、

 自分自身や家族が、

 不幸になったり

 不愉快な思いを

 しないようにする

 賢明な生き方」

 である。

 

「ノーペイン・ノーゲイン」

 何かを失わなければ

 得られるものはない。

「賢明な生き方は

 金貨に優る」

 のである。

 

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