ひょっぽこ読書記録No.168 『金貨に憧れた男』バビロンの大富豪の教え
《金貨に憧れた男》
バビロンの
二輪馬車職人
バンジールは、
すっかり
やる気を
失くしていた。
自宅を囲む
低い堀に
腰かけて、
つましい
我が家と、
作りかけの
二輪馬車が
置かれた
屋根なしの
作業場を、
悲しげに
見つめる。
開け放した
戸口には、
妻が
しきりと
姿を見せた。
妻が
こちらを
忍び見る度、
食料が
底をつきかけていることを
思い出し、
仕事に戻って
早く
馬車を
仕上げなくては
と気が咎める。
槌や鉈をふるい、
磨いて
塗装し、
車輪に
革を
ぴっちりと張り、
すぐにも
引き渡せる
状態にして、
裕福な顧客から
代金を
受け取れるように……。
それでも、
バンジールの
丸々とした
筋肉質の体は、
堀の上で
ぼんやりと
動かなかった。
鈍った頭で、
答えの見つからない
疑問と
粘り強く
格闘している。
ユーフラテス川流域ならではの、
肌を焦がすような
太陽が
容赦なく
照りつけていた。
眉の上に
汗のしずくが溜まり、
いつの間にか
顔を伝い落ちては、
黒々とした
胸毛の中に
消えてゆく。
我が家の向こうに、
王宮を囲む
階段状の城壁が
高く
そびえ立っていた。
そのすぐそばに、
青い天空を
切り裂いて、
ベル神殿の
彩色された
聖塔が
屹立する。
それら
絢爛たる
建築物の陰に、
簡素な
我が家が、
そして、
見るからに
貧弱で
むさ苦しい
家々が
びっしりと
立ち並ぶ。
バビロンとは、
かくのごとき街だ。
偉大と卑小、
眩いばかりの富と
凄まじい貧困が
同居し、
街の周壁の
内側に
何の計画も
秩序もなく
ひしめき合っている。
背後を
もし振り返れば、
金持ちの乗る
二輪馬車が、
裸足の物乞いも
サンダルを履いた商人も
ひとしなみに
押しのけながら、
けたたましく
突き進んでいるのが
見えたことだろう。
その金持ちたちでさえ、
“王の要務”を担う
水汲み奴隷たちの
長い列に
出会うと、
脇に退いて
道を開けなくては
ならない。
奴隷たちの運ぶ
山羊革の
重い袋に
入っているのは、
空中庭園に撒かれる
水だった。
バンジールは
疑問に
心塞がれていて、
活気溢れる街の
種々雑多な
ざわめきも
耳に入らず、
気に留まらなかった。
そこへ
思いがけず、
耳慣れた
竪琴の調べが
聞こえてきて、
はっと
我に返る。
振り向くと、
親友の
楽師
コビの
繊細な
笑顔があった。
「貴君に
神々より
惜しみなき
ご加護の
あらんことを、
我が友よ」
コビは
仰々しい
挨拶で
話を始めた。
「とはいえ、
すでに
神々の
ご加護に
たっぷりと
恵まれて、
働く
必要がない
と見受ける。
君の
その幸運を、
俺もともに
祝うとしよう。
いや、
何なら、
分け前に
あずかってやっても
いいぞ。
忙しく
立ち働かぬところを
見ると、
財布が
さぞ
膨らんでいる
のだろうから、
どうか
ほんの
2シケルばかり
そこから
取り出して、
今宵の
貴人の宴が
終わるまで
貸してはくれまいか。
その金が
戻るまで、
君が
不自由することも
なかろう」
「もし
俺が
2シケル
持っていても」
バンジールは
陰気な声で
返した。
「誰にも
貸しは
すまいよ。
たとえ
親友の
お主でもな。
あったとすれば、
それは
俺の財産、
しかも
全財産だ。
全財産を
人に貸す者は
いない。
たとえ
相手が
親友だろうと」
「なんと」
コビが
心底
驚いて
声を上げる。
「財布に
1シケルもない
というのに、
彫像のごとく
塀に座しているとは!
何故、
あの二輪馬車を
仕上げない?
他に
いかなる方法で、
貴き食欲を
満たすのだ?
君らしからぬことを、
我が友よ。
汲めど尽きぬ
あの活力は、
何処へ
消えた?
何か、
憂いの種でも
あるのか?
神々が
災いを
もたらしたのか?」
「神々が与えた
苦しみに
違いない」
バンジールは
認めた。
「この苦しみは、
ある馬鹿馬鹿しい夢から
始まっているのさ。
俺は
その夢の中で
資産家に
なっていた。
腰帯に提げた
立派な財布は、
貨幣で
ずしりと
重かった。
俺は
いとも
気軽に、
シケル貨を
掴み出しては、
物乞いに
投げ与えた。
銀貨も
どっさり
持っていて、
それで
女房に
よそ行きの服を
買ってやったし、
自分でも
あれこれ
欲しいものを
買った。
金貨も
たんまり
あって、
おかげで
将来に
不安はなく、
銀貨を
心置きなく
使えた。
素晴らしく
満ち足りた
気分が
体に
みなぎっていた!
あれを
もし
お主が見ても、
この働き者の
友の姿とは
気づかなかったろう。
それに、
女房にも
気づかなかったろう。
何しろ
女房の顔は
皴ひとつなく、
幸せに
光り輝いていたからな。
新婚の頃の、
笑みを絶やさぬ
乙女に
戻っていた」
「それは
また
楽しい夢を」
コビが
評する。
「だが、
どうして
それほど
楽しい
思いをしながら、
しかめっ面の
彫像のごとく
塀に
座り込むことに
なったのだ?」
「いや、
まったく!
目が覚めて、
財布が
空っぽなことを
思い出したら、
悔しさが
どっと
湧いてきたのさ。
ひとつ、
そのことについて
話してみよう
じゃないか。
船乗りの言葉を
借りれば、
俺たちは
“同じ船に
乗り合わせた
者同士”だ。
子供の頃、
俺たちは
神官のもとで
共に学んだ。
青年時代は、
お互いの喜びを
分かち合った。
大人になってからも、
ずっと
親しく
付き合ってきた。
俺たちなりに、
一臣民として
不満もなく
暮らしてきた。
長時間
働き、
稼いだ金で
好きなことをする
生活に、
満足してきた。
何十年というもの、
お互いに
びた銭を
しこたま
稼いだが、
いまだ
富のもたらす
喜びを
知らず、
ただ
夢に見るのみだ。
ふん!
愚かな羊たちと
どれほどの差が
ある?
俺たちは
世界で一番
裕福な都に
暮らしている。
旅人に聞いても、
豊かさで
これに匹敵する
街はない
という。
豊かさを
見せつけるものが
そこら中に
溢れていて、
だが、
どれひとつ
俺たちのものではない。
人生の半分を
重労働に
費やした挙句、
我が親しき友よ、
お主の財布は
空っぽで、
俺に
『今宵、
貴人の宴が
終わるまで、
ほんの
2シケル
貸してくれ』
と頼む始末だ。
それで、
この俺は
何と返事をする?
『さあ、
ここに
財布がある。
要るだけ
持っていけ』
とでも言うか?
いや、
俺の財布とて、
お主と同じく
空っぽだ。
いったい、
何が
いけないのか?
どうして
俺たちは、
金貨や銀貨を、
食いものや服に
費やして
余りあるほどの金を、
手にすることが
できないのか?
息子たちのことも、
考えてみるがいい。
父親たちの
二の舞に
なりはしないか?
息子も、
その家族も、
そして
息子の息子も、
そのまた家族も
みな、
この黄金の都の只中で
暮らしながら、
俺たちと同じく、
腐りかけた
山羊の乳と粥という
食事で
満足して
生きていくのか?」
「何十年という
付き合いの中で、
君が
そんな風に
愚痴を
こぼしたことは
一度も
なかったがな、
バンジール」
コビが
戸惑った
顔をする。
「この何十年、
こんな風には
考えたことは
一度も
なかったさ。
早暁に
起き出して
夕闇の帳が
下りるまで、
俺は
誰にも負けない
二輪馬車を
作ろうと
働き続け、
いつか
神々が
俺の
殊勝な行いに
目を留めて、
大いなる栄華を
与えてくださると
無邪気に
考えていた。
だが、
ついぞ
そのようなことは
なかった。
俺は
ようやく、
我が身に
栄華など
訪れまいと
悟ったよ。
それゆえ、
心が
暗いのだ。
俺は
資本家に
なりたい。
土地や家畜を
所有して、
いい服を着て、
財布を
銭で
いっぱいにしたい。
そのためなら、
この体の
ありったけの力を、
この手の
ありったけの技を、
この頭の
ありったけの知恵を、
精一杯
掻き立てもしようが、
やはり
正当な
報酬あってこその
労働
というものだろう。
ここで
もう一度きく!
なにゆえに
俺たちは、
欲しい品々を
我がものに
できないのか?
それを贖う
金貨を持った
連中の周りには、
贅沢な品が
溢れている
というのに」
「俺に
わかるものか!
満ち足りぬことにかけては、
俺も君と
おっつかっつだ。
竪琴で得た
稼ぎは、
羽が生えたように
消えてゆく。
よほど
慎重に
使い道を
練らぬことには、
家族を
飢えさせる羽目に
なりかねん。
我慢は
そればかりではない。
俺は、
心に湧き出でた
調べを
みごと
奏でられる
竪琴が、
欲しくて
たまらんのだ。
そのような
楽器があれば、
王ですら
耳にしたことのない
妙なる
調べを
披露できようものを」
「お主は
そんな竪琴を
持つべきだ。
バビロン広し
といえども、
お主より
美しく
竪琴を
奏でる者は
いない。
その調べは、
王どころか、
神々をも
喜ばせる。
されど
お互い、
王の奴隷並みに
貧しい身で、
どうやって
それだけの名器を
買えるだろう?
おや、
鐘の音だ!
やつらが
来るぞ」
バンジールの
指差す先には、
半裸で
汗を浮かべた
水汲み奴隷の
長い列が、
河から続く
狭い通りを
苦し気に
進んでいた。
横5列に並んだ
奴隷たちは
みな、
担いだ
山羊革の
水袋の重みに
背を丸めている。
「精悍な
面構えだな、
先頭を歩く
あの男」
コビが
言うのは、
鐘を手にして、
荷を背負わず
列を率いる
男のことだった。
「自国では
さぞ
傑物だったのだろう。
見るだけで
わかる」
「列の中にも、
立派な
風采の者が
たくさん
いる」
バンジールが
頷く。
「俺たちと同じ、
真っ当な人間ばかりだ。
背の高い
金髪の者たちは
北方から、
肌の黒い
陽気な者たちは
南方から、
小柄で
褐色の者たちは
近隣の国々から
来たのだろう。
それが
一団となって、
河から庭園へと、
来る日も来る日も、
くる年も来る年も
行き来するのだ。
先の楽しみは
何もない。
藁の寝床で
眠り、
不味い穀物粥を
食べる日々――。
畜生同然の身を、
哀れには
思わぬか、
コビ!」
「ああ、
思うさ。
だが、
自由民を
名乗る
我らとて、
さほど
変わりない身の上だ
ということを、
君は
言いたいのだろう」
「まさに
そうだ、
コビ。
思えば
不愉快だが、
現に
そうなのだから
仕方ない。
望み虚しく、
俺たちは
来る年も来る年も、
奴隷のような
暮らしを
強いられる。
働いて、働いて、
ただ働くばかりで、
何処へも
行き着けない
暮らしをな」
「懐の暖かい
連中が
どうやって
金貨を
得ているのか、
探ってみる手は
ないだろうか?」
コビが
問いかける。
「その全てを
知る者に
聞けば、
何か
秘訣を
学べるかも
しれないな」
バンジールは
思案顔になった。
「さっき
ちょうど、
我らが
古き友
アルカドが
黄金の二輪馬車で
通るのに
出くわした。
あれほどの
身分であれば、
俺ごときの
卑しき顔に
目もくれなくて
当然だろうに、
あやつは
なんと、
見過ごさなかった。
俺に
わざわざ
手を振って、
周りの
全ての者たちに、
自分が
楽師の
コビに
挨拶をし、
友情の笑みを
贈っていることを
知らしめたのだ」
「アルカドは、
バビロン一の金持ちだと
言われている」
「あまりに
金持ちだから、
王は
アルカドに、
国庫への
献金を
求めているそうだ」
と、コビ。
「あまりに
金持ちだから」
と、バンジール。
「夜の闇の中で
会おうものなら、
奴の
肥え太った
財布に
手をかけずには
いられないだろうよ」
「たわごとは
よせ」
コビが
たしなめる。
「富は、
財布に入れて
持ち運ぶものではない。
いかに
肥え太った財布も、
滔々と流れる
黄金の河が
なかったら、
たちまち
空になる。
アルカドは、
どれほど
気前よく
散財しようと、
常に
財布を
満たすだけの
収入源を
持っているのだ」
「収入源、
それだな」
バンジールは
声を上げた。
「堀に
腰かけている時も、
あるいは
遠くに
旅をしている時も、
たえず
財布に
注ぎ込む
湧き水のような
収入が
あったらなあ。
アルカドは
そういう泉を
掘り当てる
方法を
知っているに
違いない。
それは、
俺みたいな
ぼんくらでも、
聞いて
わかるような
方法だろうか」
「アルカドは
確か、
息子の
ノマジールに
その知恵を
授けたはずだ」
コビが
答える。
「酒場の
噂によれば、
ノマジールは
ニネヴェの
都に赴き、
父親からの
援助もなしに、
かの地で
指折りの
大金持ちに
なったのでは
なかったか」
「コビ、
お主は
実に
貴重な
思いつきを
授けてくれた」
バンジールの目に、
新たな光が
宿った。
「よき友に
賢明な
助言を
求める分には
1シケルも
かからないだろうし、
アルカドは
ずっと
よき友だった。
俺たちの
財布が、
1年前の
鷹巣のごとく
空っぽであろうと、
気に病むことはない。
そんな理由で
躊躇うまいぞ。
あり余る
金貨に
囲まれながら
それを
持てない
生活に、
俺たちは
ほとほと
嫌気が
差している。
俺たちは
資産家に
なりたい。
さあ、
アルカドに
会いに行って、
どうやったら
俺たちも
富の泉を
掘り当てられるのか、
教えを請うと
しよう」
「君こそ、
真の
ひらめきに
満ちた話を
してくれたよ、
バンジール。
俺の頭に
新たな悟りを
もたらしてくれた。
我々が
何故
富を生み出す
手立てを
見つけられなかったのか、
おかげで
納得できた。
その手立てを
探そうとも
しなかったからだ。
君は
地道に
働いて、
バビロンで
一番
頑丈な
二輪馬車を
作ってきた。
その志のために、
最大限の
努力を
払ってきた。
それゆえに、
ひとかどの
職人になれた。
俺は
竪琴の
名手になろうと
精進してきた。
そして、
ひとかどの
楽師になれた。
我々は
互いに、
精一杯
力を尽くして、
己の道を
極めた。
神々は、
我々が
こうやって
働き続けるだけで
よしとされた。
今
ようやく、
我々は
光を、
昇る朝日のように
眩い光を
目にしている。
その光は
我々に、
さらに
学び栄えよと
命じている。
新たな
悟りを得て、
我々は
誉れある道を
見つけ、
自らの願望を
叶えるだろう」
「今日、
この日に、
アルカドのもとへ
行こう」
バンジールは
熱のこもった
口調で言った。
「ついでに、
我々と
大差ない
暮らしぶりの
旧友たちを
誘って、
アルカドの
知恵を
共に
分かち合うとしよう」
「相変わらず
友人思いだな、
バンジール。
だから、
君には
友達が
多い。
君の
言う通りだ。
今日、
この日に、
みんなで
連れ立って
出かけよう」