ひーぶろぐ。

読書していたときに心に触れた言葉を残しています。

ひょっぽこ読書記録No.47 『天皇・皇室FILE』 ー抜粋10箇所

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   『天皇・皇室FILE』

 

 

 

・娘の顔が

 わからなかった

 明治天皇

→明治41年、

 竹田宮恒久王

 嫁ぐことになった

 明治天皇の第六皇女

 昌子内親王が、

 結婚に先立って

 父天皇のもとに

 挨拶に出向いた。

 ところが

 父娘の対面が

 十数年ぶりだったため、

 天皇

 それが誰だかわからず

 内親王

「昌子でございます」

 と名乗って

 はじめて

 気付いた

 というのだ。

 明治天皇

 肉親に対して

 愛情を表すことを、

 極度に抑制していた。

 その背景には、

 天皇

「全国民の父」

 であって、

 いち私人の

 父ではない

 という教育、

 すなわち

天皇に私なし」

 という教育が、

 徹底して

 施されてきたからだ。

 

 

昭和天皇のご学友で、

 侍従次長・掌典長

 歴任した

 永積寅彦は、

 昭和天皇

「ご自身の

 お手元で

 お子様方を

 育てたい、

 という

 お気持ちが

 非常に

 お強かった」

 と書いている。

 けれども

 その希望は

 かなえられなかった。

 明治天皇以来の

 伝統を重んじる

 皇族や重臣らの

 強い反対があり、

 とりわけ

 大きな影響力を

 保持していた母

 貞明皇后が、

 里子の廃止などについて、

 強く反対したからだ

 といわれている。

 

 

明仁親王

 生後3カ月で

 里子に

 出されている。

 その親王

 家庭をもったのは、

 終戦から

 14年後の

 昭和34年。

 皇室始まって以来

 ともいわれる

「民間」出身の

 お妃を迎え、

 出産・育児・教育などの

 方針が

 一変された。

 そこには、

 自分と同じような

 淋しい経験を、

 わが子には

 させたくない

 という

 明仁親王

 強い意志があった。

 

 

「戦前は

 両陛下がおそろいで

 明治神宮

 参拝されましたら、

 右翼が

 すかさず

天皇

 現人神で

 あらせられるのだから、

 人間的な

 夫婦の愛情などを、

 一般国民の

 目の前に

 示されるべきではない』と、

 宮内大臣

 ねじこみました。

 このように

 両陛下の

 ご生活は、

 基本的人権

 プライバシーも

 無視された

 “神格の牢獄”

 のようだった

 そうです」

 

 

天皇

 人間だから

 医者の世話になる。

 しかし、

 天皇

 現人神だった時代には、

 天皇

 健康状態や病状を

 医者が診る

 ということは、

 いうなれば

 ただの人間が、

 “神様の身体”を

 診察する

 ということに

 ほかならない。

 それだけで

 不敬になりかねないからこそ、

 天皇

 侍医たちは、

 異常なほどに

 神経を

 磨り減らした。

 また

 漢方医(本道)が

 主治医だった時代は、

 じかに

 玉体に触れるのは

 畏れ多い

 というので、

 糸を

 天皇

 手首の

 搏動部に巻き、

 その糸から

 伝わってくる

 かすかな脈で

 診察した

 という。

 

 

昭和天皇

 猫背に見えた

 本当の理由。

→戦後の

 昭和天皇は、

 さまざまな機会に

 国民とふれあい、

 その姿が

 映像で

 紹介されてきた。

 そんなおり、

 天皇の背が丸まって

 猫背のように

 見えたことを

 ご記憶の方も

 多いだろう。

 老齢からきた猫背

 と思っていた方も

 多いようだが、

 じつは

 昭和天皇には

 若いころから

 猫背ぎみの

 傾向があった。

 ただし、

 本当の猫背

 だったわけではない。

 常人より

 背中に肉がついて

 盛りあがっていたため、

 猫背のように

 見えただけで、

 背骨自体は

 まっすぐ

 伸びていたと、

 関係者が

 口をそろえている。

 昭和天皇

 “丸い背中”について、

 甘露寺受長が

 おもしろいことを

 書いている。

「ああいう

 ご姿勢は、

 じつは

 王者にふさわしいものだ

 といわれている。

 そういえば、

 イギリスをはじめ、

 欧州の

 古い王室の

 方々も、

 多少とも

 ああした背を

 もっておられるようだ。

 棒を呑んだようなのは、

 たしかに

 いい姿勢には

 ちがいない。

 しかし、

 万民を

 ひとしく

 子として

 眺められ、

 温かく

 ふところに

 お入れになる

 お方の風格には、

 どうしても

 やや

 前にかかった

 姿勢が

 ふさわしい」

 つまり

 昭和天皇は、

 生まれながらの

 “王者の背中”

 の持ち主だった

 というのだ。

 

 

・生物学、

 なかでも

 原始的な

 海洋生物である

 ヒドロゾアの

 研究を志した

 理由を、

 昭和天皇は、

「その当時は

 研究する学者が

 日本では

 少ないことですから、

 競り合うことが

 ないように

 思われましたから

 始めました」

 と説明している。

 

 

・とくに

 戦後の

 食糧難時代には、

 天皇

 率先して

 粗食の生活を

 貫き、

 栄養不足を

 心配した

 侍医や側近が

 もっと

 食べてください

 と進言しても、

「国民と同じ配給量でいい」

 といって、

 頑固に

 聞き届けなかった。

 こういうとき、

 容易に

 節を曲げないのが

 昭和天皇だった。

 

 

・このころ

 天皇

 食べていた

 パンは、

 小麦粉に

 大豆粉、

 トウモロコシ粉、

 乾草の粉などを

 混ぜた

 きわめて

 粗末なものだったが、

 そうなった

 きっかけは

 昭和21年7月に

 食卓に出た

「白いパン」だ。

 このパンを見た

 天皇は、

「少し白すぎる」

 といぶかり、

 自分だけが

 純麦のパンを

 食べるのは

 国民に対して

 忍びないから、

 混ぜ物をするように

 と注意した。

 そこで

 主膳監が

 どんぐりの粉を

 混ぜたパンを

 供したところ、

「これで結構」

 とおっしゃったので、

 以後、

 混ぜ物になった

 という。

 

 

昭和天皇

 食卓には、

 ツクシ、

 ワラビ、

 タンポポ

 野草など、

 皇居を散策して

 自ら摘んだ

 草花の料理も

 のせられた。

 いかにも

 昭和天皇らしい、

 ほほえましい

 エピソードだ。

 

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