ひーぶろぐ。

読書していたときに心に触れた言葉を残しています。

ひょっぽこ読書記録No.17 (抜粋10箇所)『学・経・年・不問』城山三郎著

 

  『学・経・年・不問』

     城山三郎 著

 

 

 

・野呂久作

「きまっている

 というのは、

 おれの

 相手となるべき

 女性が

 現に

 いま

 この地球上の

 どこかに

 まちがいなく

 一人

 実在している

 ということだよ。

 30以上

 年下の女を

 もらわぬ限りはね」

 

 

・伊地岡勇が

「たいへんだ」

 と言うなり

 飛び出して行ったが、

 いったい、

 この世で

 たいへんなこととは

 何だろう。

 人生は

 永い。

 人間は

 多い。

 地球は

 広い。

 いろいろな事が

 起こるのは

 当然だ。

 それを

 一々

 たいへんがっていては。

→明日

 いきなり

 56歳になれば、

 少しは

 たいへんかも

 知れないが。

 

 

・「たいへんだ」

 と言うことが

 わからない

 野呂に対して……

 小役付たちは、

 それを

 野呂の

 想像力の貧困

 のせいにしている。

 だが、

 野呂にしてみれば

 彼等こそ

 想像力が

 過敏なのだ。

 あわてて

 煩うのは

 無駄。

 ほんとうのことは、

 そのときになって

 みなければ

 わからない。

 たいへんなら、

 そのときになって

 たっぷり、

 たいへんさを

 味わえば

 良い。

 焦ることは

 ない。

 

 

・さぼるとか

 遊ぶとかいう

 意識はない。

 その30分の間、

 彼は

 彼なりに

 考える。

 平社員は

 走り廻ってさえ

 居ればよい

 というのではない。

 平社員だって、

 会社のために

 考えていることは

 いくらでもある。

 葉巻をくゆらせて

 瞑想する

 時間を

 持つことも、

 会社への

 貢献ではないか。

 

 

・跬歩不休・跛鼈千里。

 きほふきゅう・はべつせんり。

 のろまな亀だって、

 休まず歩けば、

 千里を行く。

・跛鼈千里

→足の悪い

 スッポンでも、

 努力すれば

 千里の道を

 行くことが

 できる。

 能力の劣るものでも

 努力を惜しまなければ

 成功するということ。

荀子』修身篇に出てくる。

→故に蹞歩(キホ:半歩)して休まざれば、

 跛鼈(ハベツ:足の不自由なスッポン)も千里、

 累土(ルイド)して輟(や)まざれば、

 丘山(キュウザン)も崇成(スウセイ)す。

→だから、足を一歩ずつ出して歩いて休止しなければ、

 足の不自由なスッポンでも千里を歩き得るのであり、

 土を積み重ねて手をゆるめなければ、

 高い丘や山でも出来上がるのである。

 

 

・資産家 望月老人

→甘い物を食う

 という

 たのしみが、

 望月にとっては、

 時には

 相場を考えること

 以上に

 貴重なこと

 なのかもしれない。

→金もうけは、

 所詮は

 何かの

 たのしみのため

 である。

 単に

 金もうけのための

 金もうけ

 というのでは、

 それは

 怪物の生涯

 であり、

 もはや

 人生の名に

 値すまい。

 その意味では、

 甘い物のために

 捧げられる

 人生があったところで、

 おかしくない。

 

 

・望月は

 豊かに

 走っている。

 随所に

 主となっている。

 遊ぶために

 走っている。

 それなのに、

 伊地岡は

 貧寒として

 走っている。

 走るために

 走っている。

 走ることの

 奴隷に

 なっている。

 

 

・キドニタテカケセジ

 季節

 道楽

 ニュース(政治・宗教は×)

 旅

 天候

 賭け

 健康

 セックス

 趣味

 

 

木口小平きぐちこへい。

 1872.9.10~1894.7.29

 日清戦争

 戦死した

 日本陸軍兵士。

 ラッパ手として、

 死しても

 口からラッパを

 話さなかった

 とされた。

 明治35~昭和20年

 小学校の

 修身教科書に掲載。

→戦前の日本において、

 広く知られた英雄。

 

 

・読書について、

 野呂の言葉

「この1年の経験から、

 著者たちの

 言っていることが

 正しいか

 正しくないか

 たのしんで

 採点しているんだ」