ひょっぽこ読書記録No.119 『波のうえの魔術師』石田衣良 文春文庫 ー抜粋8箇所
『波のうえの魔術師』
文春文庫
・この狂った時代、
どんなに
逃げたって
マーケットの影から
出ることは、
もう不可能なのだ。
市場の傘は
世界を覆っている。
庶民の振りも、
善良である振りも、
無知である振りも
すぐに
通用しなくなるだろう。
市場は
参加者の性格など
問わない。
横並びの
ありふれた人生なんて
お伽話に
関心など
持たない。
「君は
私の若い頃に
よく似ている。
そうやって
関係ないといって、
すべてを
切り捨てるところなんかは、
悪いが
そっくりだ。
それに
パチンコの勝ち負けを
毎日記録するような
臆病で
几帳面なところも」
「何故、
俺だったんですか?」
一拍の間があいた。
空をいく小鳥のように
軽々と
旋律を伸ばしていく。
「それは
難しい質問だな。
まず
君の顔を見て、
基本的な知性はありそうだ
と思った。
マーケットの仕事は
馬鹿では
勤まらない。
感覚も
鋭そうだ。
それに
君は
パチンコ店の前に
並んだ人々の中で
孤立していた。
ロシアの小説家が
こんなことを
言っている。
『本当に貧しい人というのは、
みんなと一緒に
貧しい人間のことだ。
ひとりきり
孤独に貧しいものは、
まだ
金をつくっていない
金持ちに過ぎない』
大勢の野次馬の中に
ぽつりと浮かんで、
君は
まさに
そんなふうに
見えた」
まだ金をつくっていないだけの
金持ちか。
とても
俺のこととは
思えない。
一生懸命
頑張れば、
いつか
立派に成功できるなんて
ぬるい想像を、
自分に許したことさえ
なかった。
そんなことをすれば
待っているのは
失望だけだ。
・俺は訊く。
今の経済の仕組みを
知るには、
どのくらいまで
過去にさかのぼって
歴史を学ぶ
必要があるのか。
小塚老人は
難しい顔で
こめかみに
指を当てる。
「経済考古学の
必要はない。
経済について
学び、
知識を
増やすことと、
実際の投資活動は
まったく
異なるものだ。
そこを
勘違いしては
いけない。
ピアノ工場の職人は、
一番左の白鍵A音の
ピアノ線の張力を
知っているかもしれない。
どこの国の
どの山の斜面で
取れる
スプルース材の
響きがいいかも
知っているだろう。
だが、
どれほど
ピアノの
構造や歴史を
学んだところで、
それだけでは
プロのピアニストには
なれない。
実際に弾いて、
失敗と成功を
重ねながら、
演奏技術を
身につけていくしかない。
才能の問題もある。
しかし……」
そこまで話すと、
急に
顔を
ほころばせた。
「技術だけでは、
演奏に
深みが生まれないのも
事実だな。
君に
向学心が出てきたのも
幸いだ。
私は
今の経済状況を
理解するには、
バブルの
膨張と崩壊についての
省察が欠かせないと思う。
勉強したいというなら、
1985年に
ニューヨークで開かれた
五カ国蔵相会議から
勉強すればいいだろう」
「結局のところ、
大学の成績など
その人間の権威への
従順度をはかる
ものさしに過ぎない。
真面目にやりなさい、
言うことを聞きなさい、
模範解答を覚えなさい。
君は
高等教育で
自分だけの
オリジナリティを
求められたことが
あったかね」
俺は
首を横に振った。
残念だが
小塚老人の
投資教室で
起きたように、
俺の心に
火を放った
授業など
ひとコマもなかった。
「上司や教科書や時代に
従順なだけの人間には
投資家は
務まらない。
文部省は
自立した
個性豊かな人間を
つくるという。
具体的には
それが
どんな人間なのか、
明確な
イメージひとつ
持っていないくせにな。
まあ、
お手並み拝見
というところだ」
・あの路上の出会いから
3カ月、
俺は
何故
こんなに
変わってしまったんだろうか。
今じゃ
大金をさげて、
どこかの組の親分に
会いに行く
身分だった。
成りあがったのか
落ちたのか
わからない。
運命も
マーケットと
同じだった。
先は
まったく
読めないし、
そのとき
ベストと思える手を
打つしかない。
・珍しく
休日出勤を
頼まれたのは、
7月最後の
日曜日だった。
午後一で
小塚老人の家を
訪ねると、
玄関先で
ジジイは
俺を待っていた。
白い麻のスーツに
淡いブルーのシャツ、
ネクタイは
黄色と白の
レジメンタル柄だった。
夏の夜の
野外ステージに立つ
70過ぎの
演歌歌手のような
派手な格好だ。
そんなスタイルの
ジジイを見たのは
始めてで、
俺は驚いていた。
いつも微妙に
素材とカットが異なる
紺かグレイの
スーツばかり
着ていたのだ。
小塚老人は
白の革靴と
白いひもを
レースアップすると、
俺を見上げて言う。
「どこか
おかしいかな」
俺は
笑って
こたえなかった。
鍵を閉め、
路地を尾竹橋通りに
向かった。
通りにぶつかると
左折して、
ライオンズプラザ
一階の角にある
花屋に入っていく。
俺は
ガードレールに座り、
ガラスの冷蔵ケースの前で
若い女に
花を注文する
小塚老人を
見ていた。
5分後、
黄色いバラと霞み草の
花束を持って
小塚老人が
店を出てきた。
花束というのは
注文してから
出来上がるまで、
結構
時間がかかるものだ。
さすがに
俺も、
今度は
黙っていられなかった。
「デートなら、
俺は
邪魔なんじゃ
ありませんか」
ジジイは
例の
ガラス玉の目で
俺を見る。
通りに弾ける
夏の光のせいか、
ジジイの
機嫌がいいせいか、
その目は
黒ではなく
灰色ガラスのようだった。
「君が邪魔できるような
相手ならいいのだがな。
今日は
直接は
私たちの仕事に
関わりのない人だ。
余計な用に
突き合わせるのだから、
アルバイト代は
はずもう。
タクシーを
とめてくれるかね」
俺が
尾竹橋通りで
車をとめると、
先に乗り込んだ
小塚老人は言った。
「東尾久の養福園まで
頼む」
車は
尾久橋通りにぶつかる
直前の角を
左折し、
混みいった路地に
はいっていく。
しばらくすると
都電荒川線の線路が
錆びた金網の向こうに
見えてきた。
十分足らずで
タクシーからおりると、
目の前に
白い低層マンションのような
建物があった。
入口の自動ドアの
正面は
階段と
ゆるやかなスロープで
半々に分けられ、
立派な筆文字を
レリーフにした
青銅の看板が
壁面に
埋め込まれている。
[特別養護老人ホーム 養福園]
ジジイは
花束をさげて
さっさと
階段をのぼり、
入口の横にある
受付に
声をかけた。
「311号室の
波多野さんに
面会の約束がある」
そう言うと
入園表に
自分の名前を
書いた。
振り返ると
俺に言う。
「来なさい。
私の
昔のガールフレンドを
紹介しよう」
職員に案内されて、
ずらりと並んだ
扉の前を
通った。
ほとんどの部屋は
開け放したままに
なっている。
311号室に着くと
中年女性の職員は
ドア枠の横を
ノックした。
「テルコさん、
お客様よ」
俺は
老人ホームの個室を
見たのは
初めてだった。
奥行きの深い
八畳間ほどの広さで、
右手には
きちんと
メイクされたベッド、
左手には
つくりつけの机がある。
壁は
白いクロス張りで
どこかのマンションの
受験生の部屋のようだった。
部屋の主は
折り畳みの
丸テーブルと椅子を
窓際に置き、
腰掛けて
窓の外を
見ている。
線路の向こうには
慎ましい
建て売り住宅が
並び、
そのうえには
鉱物の青さの
夏空が
広がっていた。
職員が
もう一度
繰り返した。
「テルコさん、
お客さまよ。
小塚泰造さんですよ」
ようやく
気づいたようだ。
黒地の花柄スパッツに
白いサテンのTシャツを着た
女性が
立ち上がって、
こちらを
振り向いた。
黄色いレースの肩掛けを
痩せた肩に
のせている。
年は
小塚老人と
同じくらいなので、
70ほどだろう。
若い頃の美しさは
陽が沈んで
15分後の
西の空のように、
よく動く瞳と
すらりと伸びた背に
残っている。
波多野テルコは
にこやかに笑いながら、
俺に近づいてきた。
「あら、
泰造さん、
お久しぶりですね」
俺の手を取ると
嬉しそうに、
手の甲を
撫でた。
焦って
小塚老人を見ると、
ジジイは
将来の約束をした
幼い子供でも
見るように、
手を握り合ったまま
部屋の中央に立つ
俺たちを
眺めていた。
俺に向かって
花束の
銀のフォイルを
向ける。
「渡してあげてくれ」
俺は
黄色いバラを
受け取り、
斜めに倒し
両手で
波多野テルコに
差し出した。
彼女は
最初に
顔を寄せて
香りを吸い込んでから、
花束を
胸に抱えた。
目が
きらきらと
光っている。
そこだけは
容赦ない
時間の作用を
免れているようだった。
その10センチほど
後ろにある部分に、
時は
残酷な力を
集中させたのだろう。
俺に向かって
頬を上気させていった。
「泰造さん、
どうもありがとう。
今日は
ゆっくりと
していけるんでしょう、
ねっ」
小塚老人は
ドアの近くから
俺に頷いた。
俺は
初めて
口を開いた。
「はい。
ゆっくりと
昔の話でも
聞かせてください」
そうは言っても
俺には
波多野テルコの
昔話は
意味不明だった。
時々、
話の腰が折れると、
小塚老人が
助け船を
出してくれる。
もっとも
そんなことは
数少なかった。
たいていは
波多野テルコの
楽しげな
ひとり語りで
時間は
過ぎていったのだ。
窓際のテーブルで
紅茶を
2杯ずつ
飲むと、
彼女は
壁の時計を見て
言った。
「3時から
プレイルームで、
社交ダンスがあるんです」
照れたように
唇をすぼめる。
「泰造さん、
私と踊ってくれるかしら」
俺は
微笑んで
頷いた。
プレイルームは
板敷きの広間だった。
テーブルは
一方に寄せられ、
椅子だけ
壁際に
並んでいる。
すでに
十数人の老人が
ダンスの始まりを
待っていた。
男性は
三分の一くらいだろうか。
職員が
部屋に入ってきて、
簡単なステレオに
CDをセットした。
流れてきたのは、
後年の自己表現としての
音楽とは無関係の
3、40年代の
スイングジャズだった。
アナログからの
復刻盤なのだろう、
針の音が
いい味を
出している。
すぐに
精一杯の
おしゃれをした女性と
寝巻きに毛の生えたような
格好の男性が
いくつか
即席のカップルを
つくった。
リズムに合わせて
フロアの中央で
踊り始める。
波多野テルコに
手を引かれ、
俺も
その輪に加わった。
いい時代の
産物なのだろう。
聴く者を
突き刺したり、
圧倒したりしない
スムーズな
音楽だった。
波多野テルコは
見事なタイミングを
キープして、
軽やかな
ステップを踏む。
目の前で
くるくると回る
彼女を
見ているのは
楽しかった。
俺自身はというと、
ただ
リズムに乗って
左右に揺れていただけ
だったけれど、
3曲目が
終わってから、
俺は
彼女の耳元で
囁いた。
鼻先を
先ほどの花束に
よく似た
香りが
かすめる。
「よろしかったら、
うちの父と
踊ってやって
ほしいんですけど」
「もちろん、
よろこんで」
俺は
窓辺の光の中、
ひとりで
椅子に座っている
ジジイを
手招きした。
小塚老人は
それでも
手を振って
なかなか
席を立とうとしない。
俺は
部屋の隅に
移動した。
「せっかくだから
踊ってきたら
どうです。
あなたは
俺の親父ということに
なっています。
適当に
話を
合わせてください」
小塚老人の
手を取ると、
無理やり
身体を起こした。
中央のステージに
押し出してやる。
ジジイは
覚悟を決めたのか、
姿勢を正し
波多野テルコに
近づいていった。
ドラムスティックが
カウントを
4つ刻んで、
次の曲が
始まった。
部屋に舞い立つ
ほこりと
遅い午後の
斜めの日差しで、
プレイルームは
黄金色に
染まるようだった。
「今度のディールが
終われば、
私たちのコンビも
解散だ。
最後のひとつだけ、
君に
言葉を贈ろう。
いいかな」
あらたまって
そんなことを言うのは、
人の悪い
ジジイらしくなかった。
俺は
神妙に頷いた。
「日本人は
金を
後ろ暗いもの、
汚いもの
と考える傾向がある。
金で金を生むのは
汗をかかない
最低の仕事だと
見なしている。
そろそろ
私たちは
次の段階に
進む必要が
あるのではないだろうか」
いきなり
大きな構えの話から
始まった。
俺は
液晶画面を
ちらりと
見て、
まつば銀行の値動きに
変化がないのを
確認すると、
老人の話に
神経を
集中させた。
「もう
貧しい振りも、
無知な庶民である振りも
通用しない時代が
来ている。
年間一千万人が
海外に渡航し、
個人の金融資産が
千四百兆円も
あるのでは、
世界に
言い訳は
通用しないのだ。
私は
時々
政府の人間は
何を考えているのかと
不思議に思うことがある。
君は
日本のGDPの額は
知っているな」
俺は頷いて
五百兆円と言った。
中学二年生程度の
質問だ。
「フローは五百兆円、
奇跡的に
様々な経済対策で
年率三%の
経済成長を
成し遂げても、
拡大する総需要は
十五兆円に過ぎない。
対して
日本の総資産は、
統計の数字は
色々だが、
少なく見積もっても
約八千兆円に達する。
GDPの十六倍以上だ。
私たちは
このストックの
運用成績を
年に一%上げるだけで、
新たに
八十兆円の富を
生むことができる」
確かに
ジジイの
言う通りだった。
それだけあれば、
もう一年分
国家予算を組める。
小塚老人の声は
残念そうだった。
「私たちの時代は
もう
坂本龍馬や
高杉晋作は
生まないだろう。
松下幸之助さえ
期待できない
かもしれない。
時代が
変わったのだ。
一国の盛衰を
担う波が
いくつも
過ぎていった。
これからは
青雲のロマンも、
働き盛りの成長も
望めない。
明治の傑物どころか、
昭和の勤勉な偉人さえ、
新しい時代の
モデルにはならない」
コーヒーで
喉を湿らせ、
魔術師は
話を続けた。
「別に
金を持つことは
恥ではない。
日本のストック
八千兆円は、
戦後半世紀かけて
こつこつと
積み上げられた
大切な資産だ。
それは
私たちの世代から、
君たちの世代に
受け継がれていくだろう。
君たちは
その資産を
より豊かに育て、
次の世代に
受け渡す
責任がある。
欧米諸国では
最優秀の人材を
投入して、
熱心に
殖産に
励んでいる。
金融に関する技術は
成熟した国
(あるいは
盛りを過ぎた国
でもいいが)
には欠かせないものだ。
昨日まで
田植えをしていました、
工場で
ねじの締めつけトルクを
管理していました
と新参者の振りをして、
巨額の資金を持って
怯えているのでは、
世界中の
金融機関から
狙い撃ちにされるのが
おちだろう。
私は
若い世代の
数%が、
単なる
投資の取次業務でなく、
自分自身で
リスクを負って
マーケットの荒波に
乗り出していくといいと
考えている。
生き残る人間が
そのさらに
数分の一でも、
彼らは
自らの利益と
この国の富を
殖やすための
貴重な戦力に
なるだろう」
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