ひーぶろぐ。

読書していたときに心に触れた言葉を残しています。

ひょっぽこ読書記録No.45 『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業』マイケル・サンデル ー抜粋16箇所

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   『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業』

      マイケル・サンデル

      小林正弥・杉田晶子訳

 

 

 

・君は

 路面電車

 運転手で、

 時速100キロの

 猛スピードで

 走っている。

 君は、

 行く手に

 5人の

 労働者がいることに

 気付いて

 電車を

 止めようとするが、

 ブレーキが

 利かない。

 君は

 絶望する。

 そのまま

 進んで

 5人の

 労働者に

 突っ込めば、

 5人とも

 死んでしまうからだ。

 ここでは、

 それは

 確実なことだと

 仮定しよう。

 君は

「何もできない」

 と諦めかける。

 が、

 そのとき、

 脇に逸れる線路

 =待避線が

 あることに

 気付く。

 しかし

 そこにも

 働いている人が

 1人いる。

 ブレーキは

 利かないが

 ハンドルは

 利くので、

 ハンドルを切って

 脇の線路に入れば、

 1人は

 殺してしまうけれども、

 5人は

 助けることが

 できる。

 ここで

 最初の質問だ。

 正しい行いは

 どちらか。

 君なら

 どうする?

 

 

・今度は、

 君は

 路面電車

 運転手ではなく、

 傍観者だ。

 電車の

 線路の上に

 掛かる橋にいて、

 見下ろしていると

 電車が来るのが

 見えた。

 線路の先には

 5人の

 労働者がいる。

 ブレーキは

 利かない。

 このままだと

 電車は

 猛スピードで

 5人に突っ込み、

 5人は死ぬ。

 今回は、

 君は

 運転手ではない。

 何も出来ない

 と諦めかけたとき、

 自分の隣に、

 橋から

 身を乗り出している

 ものすごく太った

 1人の男がいることに

 気付く。

 もし

 君が、

 この太った男を

 突き落せば……

 彼は

 橋から

 走って来る電車の前に

 落ちる。

 彼は

 死ぬが、

 5人を

 助けることが

 できる。

 さて、

 彼を

 橋から突き落とす

 という人は?

 

 

・じゃあ

 もう一つ

 質問だ。

 橋の上で

 太った男の

 隣にいるのは

 同じだが、

 突き落さなくて

 いいと

 仮定しよう。

 彼は

 落とし穴の上に

 立っていて、

 君は

 ハンドルを回すと

 彼を

 落とせるとしよう。

 ハンドルを

 回すかい?

 

 

・今度は、

 君は

 緊急救命室の

 医者だ

 と仮定しよう。

 そこへ

 六人の

 患者が

 やってくる。

 彼らは

 ひどい

 路面電車の事故に

 遭ったんだ。

 うち五人は

 中程度の

 怪我をしている。

 一人は

 重傷だ。

 重傷患者に

 一日中

 かかりきりで

 手当をすれば

 助かるが、

 その場合、

 五人は

 死ぬ。

 逆に

 中程度の

 五人の

 手当をすれば

 五人は

 助かるが、

 その間に

 重傷患者は

 亡くなる。

 医者として

 五人を

 助ける

 という人?

 では、

 一人を

 助ける人?

 

 

「人生の

 しかるべき時期に

 節度をもって

 哲学を学ぶなら、

 哲学は

 可愛い

 おもちゃだ。

 しかし、

 節度を超えて

 哲学を

 追及するなら

 破滅する。

 私の助言を

 聞きなさい」

 

 

「議論を

 捨てよ。

 行動的な

 人生の成果を

 学べ。

 気の利いた

 屁理屈に

 時間を

 費やしている人ではなく、

 良い暮らしと

 評判と、

 他の多くの恵みを

 持っている人を

 手本にせよ」

 

 

「この講義の目的は

 理性の不安を

 目覚めさせ、

 それが

 どこに

 導いていくのか

 見ることだ」

 

 

・今回のケースは

 架空の話ではない。

 実際にあった事件で

 二人の

 船乗りが

 被告として

 裁かれた。

 この十九世紀の

 イギリスの事件は、

 ロースクールでも

 よく議論される。

 では

 どんな事件か

 説明しよう。

 概要を説明するので、

 自分が

 陪審員だったら

 どう裁定するか

 考えながら

 聞いてほしい。

 当時の新聞に

 事件の背景を

 開設した記事が

 載っている。

(新聞の記事を読む)

「悲劇的な

 海難事故の

 物語は、

 船の

 生存者の

 物語ほどには

 語られることは

 なかった。

 この船の名は

 ミニョネット号。

 南大西洋から

 二千キロ

 離れたところで

 沈んだ。

 乗組員は

 四人。

 船長の

 ダドリー、

 一等航海士の

 スティーブンズ、

 そして

 船員の

 ブルックス

 全員、

 素晴らしい人格の

 持ち主だった」

 少なくとも

 新聞は

 そう伝えている。

 四人目の

 乗組員は

 給仕の

 リチャード・パーカー、

 十七歳。

 彼は

 孤児で、

 身寄りもなく、

 これが

 彼にとっては

 最初の

 長い航海だった。

 新聞によれば、

 友達は

 パーカーに

「行くな」

 と止めたが、

 彼は

「この旅が

 自分を

 男に

 してくれるだろう」

 と考え、

 若者らしい

 希望に

 胸をふくらませて

 出港した。

 だが

 悲しいことに

 そうは

 ならなかった。

 波が

 船に打ちつけ、

 ミニョネット号は

 沈没。

 四人の

 船員は

 救命ボートへと

 避難した。

 彼らが持っていた

 唯一の食料は

 カブの缶詰が

 二つだけで、

 真水はなかった。

 最初の三日間、

 彼らは

 何も食べずに

 耐えた。

 四日目に、

 カブの缶詰を一つ

 開けて食べた。

 その翌日、

 亀を

 捕まえた。

 それから

 数日間、

 彼らは

 もう一つの缶詰と

 亀を

 食べて

 持ちこたえた。

 だが

 それ以降の

 八日間、

 彼らには

 何もなかった。

 食べ物も水も

 なかった。

 そのような

 状況に

 置かれた

 自分を

 考えてみてほしい。

 君たちなら

 どうするだろうか?

 

 

・彼らは

 こうした。

 すでに、

 給仕の

 パーカーは

 救命ボートの底に

 横たわっていた。

 パーカーは

 他の者の

 忠告を

 無視して

 海水を

 飲んだために

 具合が

 悪くなっており、

 死が近いように

 見えた。

 十九日目に、

 船長の

 ダドリーは、

 皆で

 くじ引きを行い、

 残りの者を

 助けるために

 誰が死ぬかを

 決めよう

 と提案した。

 ブルックス

 拒否した。

 彼は

「くじを引いて

 決める」

 という

 考え方が

 気に入らなかったのだ。

 自分が

 当たったら

 大変だ

 と思ったからなのか、

 それとも

 定言的[絶対的]な

 道徳的原理を

 信じていたからなのか。

 しかし、

 いずれにしても

 くじ引きは

 行われなかった。

 その翌日、

 相変わらず

 救援船は

 現れず、

 ダドリーは

 ブルックス

 見ないように言い、

 スティーブンズに

「パーカーを殺そう」

 と合図した。

 ダドリーは

 祈りを捧げた。

 彼は

 パーカーに、

 お前の最期のときが来た

 と告げ、

 ペンナイフで

 経静脈を刺して

 殺した。

 ブルックス

 良心による

 拒否から抜け出し、

 身の毛も

 よだつような

 恵みを共有した。

 四日間、

 彼ら三人は

 パーカーの

 体と血液で

 生き残った。

 本当の話だ。

 そして

 彼らは

 救助された。

 ダドリーは、

 救助されたときのことを

 信じがたい婉曲表現で

 日記に書いている。

「二十四日目に、

 私たちが

 “朝食”を

 食べていると……

 ついに

 船が現れた」

 三人の

 生存者は

 ドイツの船に

 収容され、

 イギリスに

 連れ戻され、

 そこで

 逮捕され、

 裁判にかけられた。

 ブルックス

 国側の

 証人となった。

 ダドリーとスティーブンズは

 裁判にかけられた。

 彼らは

 事実については

 争わず、

「必要に迫られての

 行為だ」

 と主張した。

 そして、

 三人が

 生き残れるのなら

 一人の

 犠牲は

 仕方ない

 と論じた。

 検察官は

 その議論に

 惑わされることは

 なかった。

 検察官は、

 殺人は殺人である

 と言い、

 事件は

 裁判にかけられた。

 さあ、

 自分が

 陪審員だと

 想像してほしい。

 ただし、

 議論を

 単純にするために、

 法律的な問題は

 横に置いて、

 君たちは

 彼らが

 道徳的に

 許されるか否かのみを

 判断する

 責任を負っている

 と仮定しよう。

「彼らは

 有罪ではない、

 つまり

 彼らが

 したことは

 道徳的に

 許される」

 と思う人?

「いや

 有罪だ、

 彼らが

 したことは

 道徳的に

 間違っている」

 と思う人?

 

 

アメリカの

 フォードが発売した

 ある車の事例だ。

 七十年代に起きた

 事件だが、

 ピント

 という車を

 覚えている人は

 いるかな。

 これは

 小さな車で

 とても

 人気があった。

 だが、

 一つ

 問題があった。

 燃料タンクが

 車の後方にあり、

 後ろから

 追突されると、

 炎上する

 という点だ。

 事故で

 亡くなった人もいれば、

 重傷を負った人もいた。

 負傷した

 被害者たちは

 フォードを

 訴えた。

 そして、

 その訴訟の中で、

 メーカーが

 ずいぶん前から

 燃料タンクの

 弱点を

 認識していたことが

 明らかになった。

 燃料タンクのまわりに

 防護シートを

 つけることを考え、

 それを

 実行する価値が

 あるかどうか

 判断するために、

 費用便益分析を

 実施していたのだ。

 その際、

 車の安全性を

 向上させるために

 かかる費用を、

 一台当たり

 十一ドルとした。

 そして

 これが、

 裁判の中で

 公開された

 会社側の費用便益分析の

 結果だ。

ー--

  『ピントの修理』

 費用

  部品当たり11ドル

  ×1250万台

  ≒1億3700万ドル

  (安全性向上のため)

 便益

  死者180人×20万ドル

  +負傷者180人×67000ドル

  +2000台×700ドル

  ≒4950万ドル

ー--

 1250万台の

 車の安全性を

 向上させるには、

 一台当たり

 十一ドルとして、

 一億三千七百万ドルかかる。

 それから、

 この金額を投じて

 車を修理した場合の

 便益、

 つまり、

 事故を

 防ぐことの価値を

 計算した。

 死者百八十人。

 一人当たりの価値を

 ドルに換算すると、

 二十万ドル。

 負傷者も百八十人で、

 一人当たり

 六万七千ドル。

 事故を起こして

 炎上する車は

 二千台で、

 修理費用は、

 一台当たり

 七百ドルだ。

 これらの便益を

 合計すると

 四千九百五十万ドルにしか

 ならなかったので、

 メーカーは

 車を直さなかった。

 言うまでもないが、

 裁判の中で、

 会社が作った

 費用便益分析のメモが

 公開されると

 陪審員

 愕然として、

 巨額の和解金の

 支払いを命じた。

 この自動車メーカーは

 生命の価値

 という基準を

 加えたから、

 これは、

 功利主義的な

 計算の考え方を

 否定する例と

 言えるのだろうか?

 さあ、

 ここで、

 メーカー側に立って、

 費用便益分析を

 弁護したい人は

 いないだろうか?

 弁護できる人は?

 もしくは、

 これが

 功利主義の計算法を

 完全に

 崩壊させる

 と思う人は?

 

 

・最近、

 運転中の

 携帯電話の

 使用についての

 調査が行われ、

 この行為を

 禁止すべきかどうかが

 議論された。

 そして、

 調査の結果、

 毎年

 およそ

 二千人が、

 運転中に

 携帯電話を

 使ったために

 事故を起こし、

 命を

 落としていることが

 わかった。

 しかし、

 ハーバード大学

 リスク分析センタが

 行った費用便益分析では、

 運転中に

 携帯電話を

 使うことで

 もたらされる便益と、

 失われる命の価値は

 ほぼ同じだ

 という

 結果が出た。

 運転中に

 商談を進めたり

 友人と話したりすれば

 時間を節約でき、

 大きな

 経済的便益が

 生まれるからだ。

 これを聞いても

 まだ、

 命の価値を

 ドルに換算するのは

 間違いだとは

 思わないかな?

 

 

・もし、

 大多数の人々が

 携帯電話のような

 サービスを利用し、

 その利便性を

 最大限に

 活かしたい

 と考えるなら

 仕方ない

 と思います。

 満足には

 犠牲は

 付き物ですから。

 

 

古代ローマでは、

 ローマ人は

 娯楽のために、

 キリスト教徒を

 ライオンと

 戦わせていた。

 これを

 功利主義の理論に

 あてはめると、

 ライオンに

 襲われる

 キリスト教徒の

 痛みや苦しみと、

 大勢のローマ人の

 集合的なエクスタシーでは、

 どちらが

 大きいだろう?

 どう思う?

 

 

・拷問とテロリズム

 について

 考えてみたい。

 九月十日に

 テロの容疑者を

 逮捕したとしよう。

 君は、

 彼が

 三千人以上を

 殺害する

 差し迫った

 テロ攻撃についての

 決定的な情報を

 持っている

 と信じているが、

 情報を

 引き出すことが

 できない。

 その情報を

 得るために、

 容疑者を

 拷問することは

 正しいだろうか。

 あるいは、

 君には

 個人の権利を

 尊重する

 定言的[無条件的]な

 道徳的義務があるから、

 やっては

 いけないのか。

 

 

・何年も前、

 私が

 まだ

 大学院生だった頃、

 オックスフォード大学は

 男女共学ではなく、

 男子カレッジと

 女子カレッジに

 分かれていた。

 そして、

 女子カレッジの寮に

 男性を泊めることは

 禁じられていた。

 でも、

 この規則は

 形だけのものに

 なっていて、

 みんな

 平気で

 破っていた。

 ……と

 私は聞いた。

 1970年代の後半になると、

 この規則の緩和を求める

 圧力が高まり、

 女子カレッジの一つ、

 セント・アン・カレッジの

 教職員の間で

 話し合いがもたれた。

 年配の女性教職員たちは

 保守的で、

 従来の規則を

 変えることに

 反対した。

 しかし

 時代は

 すでに

 変わっていた。

 彼女たちは、

 反対する

 本当の理由を

 言うのが

 恥ずかしかったから、

 議論をすり替えて

 功利主義の言葉に

 置き換えた。

「男性が泊まると

 大学側の出費が

 増える」

 と彼女たちは言った。

 どうして

 そうなるのか?

「男性が

 風呂に入ると

 お湯の消費量が

 増えるから」

 だそうだ。

 さらには、

マットレス

 交換する

 頻度が

 増える」

 という

 意見まで出た。

 改革を求める人たちは、

 条件を付けることで

 大学側と合意した。

「各女性が

 泊められる

 男性は、

 週に

 三人までとする」

 同じ男じゃなきゃ

 いけない

 という

 決まりは

 なかった(笑)。

 条件は

 もう一つ

 あった。

「宿泊客は

 費用を賄うために、

 50ペンスを

 支払わなければ

 ならない」(笑)

 翌日、

 全国紙の

 見出しには

 こんな文字が

 踊った。

「セント・アンの

 女の子は

 一晩50ペンス」

 この例は

 ある種の

 美徳[貞節]について

 のものであるが、

 すべての価値を

 功利主義の言葉に

 置き換えることが、

 いかに難しいか、

 これによっても

 わかる。

 

TVCMで話題のココナラ

 

レンブラントの絵は凄い」

 と言われれば

 そう思いますが、

 実際は

 彼の絵を

 分析するよりも

 漫画を

 読むことのほうが

 楽しい

 と思います。

 

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