ひょっぽこ読書日記No.39 『超訳ニーチェの言葉』ー抜粋19箇所
白取晴彦編訳
・自分は
たいしたことがない
人間だなんて
思ってはならない。
それは、
自分の
行動や考え方を
がんじがらめに
縛ってしまうような
ことだからだ。
そうではなく、
最初に
自分を
尊敬することから
始めよう。
まだ
何もしていない自分を、
まだ
実績のない自分を、
人間として
尊敬するんだ。
自分を
尊敬すれば、
悪いことなんて
できなくなる。
人間として
軽蔑されるような
行為を
しなくなるものだ。
そういうふうに
生き方が変わって、
理想に近い自分、
他の人も
見習いたくなるような
人間に
なっていくことが
できる。
それは
自分の可能性を
大きく開拓し、
それを
なしとげるに
ふさわしい力を
与えることになる。
自分の人生を
まっとうさせるために、
まずは
自分を尊敬しよう。
・どんな人にも
一芸がある。
その一芸は、
その人だけのものだ。
それを
早くから知っていて、
充分に生かして
成功する人もいる。
自分の一芸、
自分の本領が
何であるか、
わからないままの
人もいる。
それを
自分の力のみで
見出す人もいる。
世間の反応を
見ながら、
自分の本領が
何だろうか
と模索し続ける
人もいる。
いずれにしても、
くじけず、
たくましく、
果敢に
挑戦を続けていけば、
自分の一芸が
わかってくるはずだ。
・勘違いしては
ならない。
自制心
という
言葉を
知っているだけで、
なにがしか
自制できている
わけではない。
自制は、
自分が
現実に行う
そのもののことだ。
一日に一つ、
何か
小さなことを
断念する。
最低でも
そのくらいのことが
容易にできないと、
自制心がある
ということには
ならない。
また、
小さな事柄に関して
自制できないと、
大きな事柄に関して
上手に自制して
成功できるはずもない。
自制できる
ということは、
自分を
コントロールできる
ということだ。
自分の中に
巣くう欲望を
自分で制御する、
欲望の言いなりに
なったりせず、
自分が
ちゃんと
自分の行動の
主人になる、
ということだ。
・多くの方法論の
本を読んでも、
有名な
経営者や金持ちの
やり方を学んできても、
自分の
やり方や方法が
わからない。
これは
当然のことで、
薬ひとつにしても、
その人の
体質に合わない
場合がある。
他人のやり方が
自分に合わないのは
不思議なことではない。
問題は
まず、
自分の
「なぜ」が
ちっとも
わかっていない
ということにある。
自分が
なぜ
それをやりたいのか、
なぜ
それを望むのか、
なぜ
そうなりたいのか、
なぜ
その道を行きたいのか、
ということについて
深く考えてないし、
しっかり
つかんでいないからだ。
その自分の
「なぜ」さえ
はっきり
つかめていれば、
あとは
もう簡単だ。
どのようにやるか
なんて
すぐに
わかってくる。
わざわざ
他人の真似をして
時間をつぶすこともない。
もう
自分の目で
自分の道が
はっきりと
見えているのだから、
あとは
歩いていけば
いいだけになる。
・物事は
いかようにも
解釈できる。
良い物事、
悪い物事が
初めから
あるのではない。
良いとするのも
悪いとするのも、
役立つとか
役立たないとか、
素晴らしいとか
醜悪だとか、
いかようであろうとも、
解釈するのは
結局
自分なのだ。
しかし、
どう解釈しようとも、
そのときから
その解釈の中に
自分を
差し込むことになるのを
知っておこう。
つまり、
解釈にとらわれ、
その解釈が
できるような
視点からのみ
物事を
見てしまうようになるのだ。
つまり、
解釈や、
そこから
生まれる
価値判断が
自分を
きつく縛る
というわけだ。
しかし、
解釈せずには
物事の始末が
つけられない。
ここに、
人生を
読み解いていくことの
ジレンマがある。
・この世の中に
生まれる悪の
四分の三は、
恐怖心から
起きている。
恐怖心を持っているから、
体験したことのある
多くの事柄について、
なお
まだ
苦しんでいるのだ。
それどころか、
まだ
体験していないことにすら
恐れ苦しんでいる。
しかし、
恐怖心の正体
というのは、
実は
自分の
今の心の
ありようなのだ。
もちろん
それは、
自分で
いかようにも
変えることができる。
自分自身の心なのだから。
・どれほど
良いことに
見えても、
「~のために」
行うことは、
卑しく
貪欲なことだ。
誰々のためにであろうとも、
何々のためにであろうとも、
それが失敗した
と思えるときには
相手、
もしくは
事情や
何かのせいにする
心が生まれるし、
うまくいった
と思えるときには
自分の手柄だとする
慢心が生まれるからだ。
つまり、
本当は
自分のためにだけ
行っているのだ。
けれど、
純粋に
能動的な愛から
行われるときには、
「~のために」
という
言葉も考えも
出てくることはない。
「満足が贅沢」
・今では
享楽者とか
快楽主義者
という
誤解された意味でのみ
使われている
“エピキュリアン”
という
言葉だが、
その語源となった
古代ギリシアの哲学者
エピキュロスは、
生きていくうえでの
快楽を追求した。
そして
たどりついた頂点が、
満足という名の
贅沢だった。
その贅沢に必要なものは、
しかし
多くはなかった。
すなわち、
小さな庭、
そこに植わっている
数本のイチジクの木。
少しばかりのチーズ、
三人か四人の友達。
これだけで、
彼は
充分に
贅沢に
暮らすことが
できた。
・すべて、
初めは
危険だ。
しかし、
とにかく
始めなければ
始まらない。
・人生は
それほど
長いものではない。
夕方に
死が訪れても
何の不思議もない。
だから、
私たちが
何かをなす
チャンスは、
いつも
今
この瞬間にしかないのだ。
そして、
その
限られた時間の中で
何かをなす以上、
何かから離れたり、
何かをきっぱりと
捨てなくてはならない。
しかし、
何を捨てようかと
悩んだりする
必要はない。
懸命に行動しているうちに、
不必要なものは
自然と
自分から
離れていくからだ。
あたかも、
黄色くなった葉が
樹木から
離れ去るかのようにだ。
そうして
私たちは
さらに
身軽になり、
目指す高みへと
ますます
近づいていくことに
なるのだ。
・私たちは、
慣れきっている事柄、
つまり
衣食住に関して
あまりに
おろそかにしがちだ。
ひどい場合には、
生きるために
食っているとか、
情欲ゆえに
子供を産むなどと
考えたり
言ったりする人も
いるくらいだ。
そういう人たちは、
ふだんの生活の
大部分は
堕落であり、
何か別の
高尚なことが
他にあるかのように言う。
しかし
私たちは、
人生の土台を
しっかりと支えている
衣食住
という生活に
もっと
真摯な眼差しを
向けるべきだ。
もっと
考え、
反省し、
改良を重ね、
知性と芸術的感性を
生活の基本に
差し向けようではないか。
衣食住こそが
私たちを生かし、
現実に
この人生を
歩ませているのだから。
・死ぬのは
決まっているのだから、
ほがらかに
やっていこう。
いつかは
終わるのだから、
全力で
向かっていこう。
時間は
限られているのだから、
チャンスは
いつも
今だ。
嘆きわめくことなんか、
オペラの役者に
まかせておけ。
「飽きるのは
自分の成長が
止まっているから」
・なかなか
簡単には
手に入らないような
ものほど
欲しくなるものだ。
しかし、
いったん
自分のものとなり、
少しばかり
時間がたつと、
つまらないもののように
感じ始める。
それが
物であっても
人間であってもだ。
すでに
手に入れて、
慣れてしまったから
飽きるのだ。
けれども
それは、
本当は
自分自身に
飽きている
ということだ。
手に入れたものが
自分の中で
変化しないから
飽きる。
すなわち、
それに対する
自分の心が
変化しないから
飽きるのだ。
つまり、
自分自身が
成長し続けない人ほど
飽きやすいことになる。
そうではなく、
人間として
成長を続けている人は、
自分が
常に
変わるのだから、
同じものを
持ち続けても
少しも
飽きないのだ。
・いかにも
親密気な態度を
示してくる。
また、
いろいろなことに
かこつけて
相手との親密さを
得ようとしたり、
必要以上の連絡を
しょっちゅう
してくるような人は、
相手の信頼を
得ているかどうかに
まったく
自信がないことを
あらわにしている。
すでに
信頼し合っているのならば、
親密な感じに
頼らないものだ。
他人からすれば、
むしろ
そっけない
つきあいのように
見える
場合が多い。
・世間にありながら、
世間を越えて
生きよ。
世の中を越えて
生きるとは、
まずは、
自分の
心や情の
その都度の動きによって
自分が
あちらこちらへと
動かない
ということだ。
情動に振り回されない、
自分が
自分の情動という馬を
うまく乗りこなす
ということだ
とも言える。
これが
できるようになると、
世間や時代の
その都度の
流れや変化に
惑わされないようになる。
そして、
確固たる自分を持ち、
強く生きることが
できるようになるのだ。
・車に轢かれる危険が
最も大きいのは、
一台目の車を
うまくよけた直後だ。
同じように、
仕事においても
日常生活においても、
問題やトラブルを
うまく処理して
安心から
気を緩めたときにこそ、
次の危険が
迫っている
可能性が高い。
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・人に
物事を
伝えるときには
コツがある。
新しい出来事や
相手が驚きそうな事柄を
伝えるときは、
いかにも
それが
周知の
少し古い
事柄であるかのように
話して
伝えるのだ。
すると、
相手は
すんなりと
受け取るようになる。
こうしないで
新しい出来事を
伝えると、
相手は
それを
自分が
知っていなかったことに
劣等感を覚え、
そこから来る
怒りを
相手に
ぶつけるようになる。
こうなると、
相手に
伝えなければならない事柄も
まともに
受け取って
もらえなくなるのだ。
このコツを
知っているかどうかで、
コミュニケーションの質が
大きく変わってくるし、
共同で
仕事をする場合は、
その成否にさえ
関わってくる。
・他人を
あれこれと
判断しないこと。
他人の
値踏みも
しないこと。
人の
噂話も
しないこと。
あの人は
どうのこうのと
いつまでも
考えないこと。
そのような
想像や考えを
できるだけ
少なくすること。
こういう点に、
良き人間性の
しるしがある。
・人間とは
不思議なもので、
勝手に
行為に
大小をつける。
大きなことをしたとか、
小さなことしかできなかったなど
と決めつける。
もっと
不思議なことがある。
人間は、
自分が
しなかった行為を
悔いる。
しなかった行為なのに、
あれは
大きなことだった
と本気で思い、
悔やんだりする。
また、
自分のした行為、
自分のしなかった行為の
大小を、
自分で決定できる
と思い込んでいる。
その大小が
真実だとさえ
思っている。
自分のした
小さな行為が、
実は
ある他人にとっては
大きなことかもしれない。
その反対かもしれない。
いずれにしても、
過去の行為を
価値づけることは
無意味なことなのだ。