ひーぶろぐ。

読書していたときに心に触れた言葉を残しています。

ひょっぽこ読書記録No.49 『取材・執筆・推敲』古賀史健著 ダイヤモンド社 ー抜粋29箇所

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   『取材・執筆・推敲』

    書く人の教科書

      古賀史健著

       ダイヤモンド社

 

 

 

「書くこと」である以上に

「考えること」。

 センスでなく

 思考のみが、

 達意の文章を

 生み出す。

 

 

・書くのではなく、

 コンテンツを

 つくる。

 

 

・ぼくは

「エンターテイン

(お客さんを

 楽しませること)を

 目的に

 つくられたもの」は、

 すべて

 コンテンツだ

 と思っている。

 お客さんの存在を

 前提にしていること。

 そして、

 お客さんの

「楽しみ」や「喜び」に

 主眼が

 置かれていること。

 つまりは、

 自分よりも

 お客さんを

 優先していること。

 この原則を

 守って

 つくられたものは、

 すべて

 コンテンツだ。

 

 

・たとえば、

 事実だけを

 列挙した、

 新商品発売の

 プレスリリース。

 これは

 情報伝達を

 目的とした

 文章ではあっても、

 コンテンツではない。

 しかし

 リリース文のなかに、

 開発担当者の

 コメントが

 添えられる。

 これで

 少し、

 コンテンツに

 近づく。

 そのコメントが、

 いきいきとした、

 喜びと興奮に

 満ちたものだったとする。

 新商品が

 生まれるまでの経緯、

 試作段階での苦労、

 突破口となった

 改善ポイントまで、

 紆余曲折の

 開発ストーリーが

 語られていたとする。

 開発担当者が

 喜々として

 しゃべっている写真、

 試作品の写真、

 図やグラフ、

 さまざまな

 ビジュアルが

 添えられていたとする。

 こうなると

 もう、

 完全に

 コンテンツだ。

 ひとりの

 読者

(お客さん)として、

 十分に

 楽しめる

 読みものだ。

 

 

・ここに

 1枚の

 チューインガムが

 あったとする。

 これは

 コンテンツではない。

 ただの

 駄菓子だ。

 しかし

 パッケージの表面に、

 ドラえもんの絵が

 描かれる。

 そうなると

 少し、

 コンテンツの要素が

 加わる。

 のび太が描かれた

 パッケージ、

 ジャイアンが描かれた

 パッケージ、

 スネ夫が描かれた

 パッケージ。

 5枚の

 ガムを並べると、

 1枚の絵になる。

 この組み合わせは

 もう、

 完全に

 コンテンツだ。

 

 

・分岐点となるのは、

 その根底に

「エンターテインの

 精神が流れているか」、

 それだけである。

 

 

・コンテンツの

 パッケージとは何か。

 簡単に言えば

「人」と

「テーマ」と

「スタイル」の

 3つだ。

 つまり、

「誰が(人)」

「なにを(テーマ)」

「どう語るか(スタイル)」

 のパッケージを

 設計していくのが、

 編集者の

 もっとも

 大切な

 仕事なのである。

 

 

「誰が、何を語るか」は

 同じなのに、

「誰に向けて語るか」

 によって、

 変化するもの、

 それが

 ここでの

「スタイル」だ。

 我々は

 普段、

 相手に応じて

 語りの

 スタイルを

 変化させている。

 しっかりと

 伝わるように。

 あるいは

 失礼のないように。

 楽しんでもらえるように。

 

 

・これを

 コンテンツに

 置き換えて

 考えるなら、

 スタイルを

 考えることは

「誰に、

 どう読んでもらうのか」

 を考えることだ

 と言える。

 あるいは

「そのコンテンツの

 ゴールを、

 どこに設定するのか」

 と言っても

 かまわない。

 

 

・編集者にとっての

「編集」とは

 何かと

 問われれば、

 ぼくは

「誰が、

 何を、

 どう語るか」

 の設計だ

 と答える。

 究極的に

 編集者は

「人」を

 編集しているのだ

 と答える。

 

 

・ライターは

 編集という

 武器を手に入れ、

「書く人」から

「つくる人」へと

 変わらなければ

 ならない。

 

 

・ライターにとっての

 編集とは

 どのようなものなのか。

 ぼくは

 次の3つが

 揃ったとき、

 価値ある

 コンテンツが

 生まれる

 と考えている。

①情報の希少性

②課題の鏡面性

③構造の頑強性

 

 

・コンテンツは、

「ここでしか

 読めない

 何か」が

 含まれたとき、

 はじめて

 本質的な価値を

 手にする。

 

 

・読者は

 いつも

「出会い」を求め、

「発見」を求めているのだ。

 

 

・自分の夢が

 面白く感じるのは、

 それが

「自分ごと」

 だからだ。

 そして

 周囲の誰も

 面白がってくれないのは、

 それが

「他人ごと」

 でしかないからだ。

 我々は

 自分が見た

 夢そのものを

 楽しんでいるのではなく、

「そんな夢を見てしまった

 自分」を、

 面白がっているのである。

 

 

・原稿を

 コンテンツとして

 成立させるためには、

 そこに

 何らかの

「自分ごと化」

 できる要素が

 必要だ。

 ぼくにとって、

 乙女座を含まない

「11星座占い」は、

 ほとんど

 無価値の

 読み物である。

 

 

・没入の鍵は、

 物語(ストーリー)

 の有無よりも

 むしろ、

 [人格(キャラクター)の付与]

 にある。

 魅力的な

 キャラクターが

 いるからこそ

 我々は、

 そこに

 自分を重ね、

 作中の出来事を

 自分ごととして

 読み、

 手に汗を握る。

 自己を投影する

 キャラクターが

 いなければ、

 うまく

 感情移入することも

 できない。

 

 

・コンテンツは、

 何らかの意味で

 読者を映す

 鏡のような

 存在でなければ

 ならない。

 鏡面性を持たない

 曇ったコンテンツは

 他人ごとであり、

 面白く読んで

 もらえないのである。

 

 

・そもそも

 ライターとは、

 からっぽの

 存在である。

 天才物理学者の知識も、

 合衆国大統領の経験も、

 シェイクスピアのひらめきも、

 何ひとつ

 持ち合わせていない、

 からっぽな人間だ。

 だからこそ

 ライターは、

 取材する。

 からっぽの自分を

 満たすべく、

 取材する。

 自分と

 同じ場所に立つ

 読者に代わって、

 取材する。

 

 

・取材したこと、

 調べたことを

 そのままに

 書くのが

 ライターなのか?

 違う。

 絶対に

 違う。

 僕の答えは、

「返事」である。

 

 

「私は、

 こう理解しました」

「私には、

 こう聞こえました」

「私は

 この部分に、

 心を動かされました」

「私だったら

 こんな言葉で、

 こういうふうに

 書きます」

「何故なら

 あなたの思いを、

 ひとりでも

 多くの人に

 届けたいから」

 それが

 ライターの

 原稿なのだ。

 

 

・取材者にとっての

「世界」とは、

 開かれた

 一冊の本である。

 取材者は、

 一冊の本を

 読むように

「人」を読み、

 その言葉を

 読まなければ

 ならない。

 取材者は、

 一冊の本を

 読むように

「コト」を読み、

 その奥底まで

 読まなければ

 ならない。

 取材者は、

 一冊の本を

 読むように

「世の中」を読み、

 その流れを

 読まなければ

 ならない。

 科学的、

 数学的、

 客観的な

 正解を求めて

「解く」のではない。

 あくまでも

 取材者個人の

 主観で

 世界を「読む」。

 ひたすら

 読む。

 

 

・面白い話をしましょうか、

 絵ってねえ、

 たとえば

 セザンヌでも

 誰でも

 長いことかかって

 絵を描いているでしょう?

 下手な絵描きっていうのは

 すぐ

 絵ってできちゃうんだよ。

 あんなには

 描いてはいられないんですよ。

 ということはねえ、

 あの人たちが

 見ているものを

 僕たちは見てないわけ、

 あの人たちが

 見えているものは

 違うんですよ。

 だから

 あんだけ

 一生懸命

 描いているんですよね。

 自分に

 本当に

 見えているものを

 本当に

 出そうと

 思って。

 僕たちには

 実に

 浅はかなものしか

 見えてないから

 すぐ

 できちゃうわけ。

 

 

「この人に会ったら、

 何を聞こう?」

 

 

「なぜ、

 こう書いたのか?」の

 もう一歩先にある、

「なぜ、

 こう書かなかったのか?」を

 考えていくのだ。

 

 

・本を読むとき

 僕は、

「あの人に、

 どう紹介しよう?」

 を考えながら

 読んでいる。

 別に

 感想を

 求められているわけでも

 ないのに、

 特定の

「あの人」まで

 イメージしつつ、

「どんなふうに

 紹介しよう?」

「どんな感想を

 言葉にしよう?」

 を考えながら

 読んでいる。

 場合によっては

 ――

 誰から

 求められた

 わけでもない

 ――

 書評を

 イメージしながら

 読むことさえある。

 

 

・どうすれば

「検索型」ではない

 読書が

 できるのか?

 乱読である。

 自分の

 興味関心から

 離れた本、

 仕事やプライベートの

 実利と

 直結しているとは

 思えない本、

 特段話題になっている

 わけではないジャンルの本、

 顔も名前も知らない

 異国の作者の本を、

 ただ読んでいく。

 目的のないまま、

 いわば

「読むために読む本」

 として

 読んでいく。

 目的さえ

 取り払ってしまえば、

 読書は

 結論を

 急がない。

 

 

社会学の本を

 読んでいても、

 美術史の本を

 読んでいても、

 誰かの評伝を

 読んでいても、

 情報を

 求めているわけでは

 ないのだから、

 何かを

「お勉強」する

 態度にならない。

 眼前に広がる世界を

 純粋に楽しみ、

 作者と

 語り合うことが

 できる。

 本の細部にまで

 目が届くし、

 表現の巧拙が

 より

 くっきりと

 浮かび上がる。

 

 

・もしも

 読書を

「知識のインプット」

 と捉えていたなら、

 何百、何千の

 名作を読んだところで

 座右の書には

 出会えない。

 一方、

 自分を

 変えるつもりさえあれば、

 たとえ

 何歳になってからでも

 座右の書を

 更新することができる。

 座右の書が

 更新されることは、

 すなわち

 自分という人間が

 更新されることだ。

 

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